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武蔵国 由木城 [ YUGI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナユギジョウ
別称柚木城、由木氏館、大石氏館
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類平山城
築城者由木氏
築城年不明
廃城年不明
主な城主由木氏、長井氏、大石氏
指定史跡市指定
標高128.8 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構なし
現状永林寺
駐車場付近に駐車場なし
最寄り駅京王電鉄 京王堀之内駅


概要・現地案内板

武州滝山城主大石源左衛門尉定久の居館があったといわれ、由木城とも呼ばれてる。
定久はのちに隠居し「心月斎(真月斎)」と名のり、この一帯100万㎡の広大な地を永林寺々領としたという。
このあたり野猿峠までを殿ヶ谷戸というが、これは「往昔由木氏が旧跡なるゆえ、おのずから殿のあとという心にて殿ヶ谷戸と唱えて、村の小名に称すなり」と「武蔵名勝図会」に記されているとおり、由木氏の居住地でもあったと推定される。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


総門


天文15年(1546年)建立。文禄4年に野火により焼失。宝暦元年(1758年)に再建される。1間薬医門切り妻造り銅板葺き。公卿格式10万石を徳川家康公により与えられた永林寺は、朱塗りの門と壁の5条線が許され、これより、由木の赤門と呼ばれている。総門は、文政11年(1828年)に八王子小町土佐棟梁により再大改修され現在に至る。
※現地看板より

三門


天文15年(1546年)建立。文禄4年に野火により焼失。寛文9年(1669年)相州藤原貞通棟梁により、再建3間1戸総円柱二階二重門入母屋造り銅版葺き。安永4年(1775年)12月に解体大改修され、その後昭和40年に大改修され現在に至る。三門上には、16羅漢木造を安置し、正面両側に仁王像を安置する。

。三門とは、空門(一切を空と観ずる)無相門(迷いの煩悩を離れ悟りを得る)無願門(真実を悟り願求するところがない)三解脱門のことである。この三解脱を得て本堂に向かう大切な門である。
※現地看板より

中雀門(勅使門)


平成25年(2013年)建立(再建)
天正15年(1587年)御陽成天皇より勅願寺院の綸旨を賜り、勅願寺と成りました。その折、建立許可された門で、勅使門、別名(公家の門)と呼ばれ格式のある門で、建立時は、向唐破風の門であった。文禄4年(1595年)野火に合い焼失する。寛文9年(1669年)11月再建される。(唐破風門 焼失不明)天保11年(1840年)4月再建される。

大正12年関東大震災にて倒壊し、再建し。昭和41年9月、台風にて倒壊する。昭和42年横浜東漸寺の山門を移築。(脇門にて現存)中雀とは、南に向かって中庭に建てられている門で、永林寺では、本堂に向かう最後の門である。平成25年4月御開山一種長純大和和尚様450回大遠忌法要を厳修させて戴きました。この報恩記念事業として、中雀門再興(建立当時の向唐破風門)を計画致し、大本山恩持寺勅使門を基として、翠雲堂に設計建築をお願いし、平成23年より着工し、平成24年完成、平成25年落慶法要、再興出来ました事、大変感謝致し、謹んで御礼申し上げます。
※現地看板より

金峰山 永林寺


永林寺は、大石源左衛門尉定久公の居館(由木城)であったものを、定久公が滝山城主として滝山城に移るに至り、叔父である一種長純大和尚に譲り、天文元年(1532年)3月永鱗寺として創建された。その後八王子城主北条氏照公の助成を受けて天文15年七堂伽藍の完備された大寺院が完成された。天正15年後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受け護国殿の勅額を受ける。

天正19年9月徳川家康公が当寺に巡拝された折り、朱印10石、公卿格式10万石を授けられ、赤門の建立が許可された。又永鱗寺の鱗の文字を林に変え、現在の永林寺の寺名となり今日に至っている。又、当地域に10ヶ寺の末寺を有する、格地本寺寺院である。永林寺には、大石家丸に三つ星、北条家三つ鱗、天皇家菊、53の桐、徳川家三つ葉葵等五つ紋を有しており、往時を偲ぶ事が出来る。※現地看板より

下馬


主郭


城址碑


大石定久公像


2024/6最終訪問


城郭周辺地図

東京都八王子市下柚木

付近に駐車場なし


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