城郭DATA -CASTLE DATA- 
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | ヒクマジョウ |
別称 | なし |
スタンプ設置場所 | ー |
曲輪配置 | - |
城郭種類 | 平山城 |
築城者 | 今川貞相 |
築城年 | 永正年間 |
廃城年 | 1570年 |
主な城主 | 今川氏、松平氏 |
指定史跡 | 不明または未指定 |
標高 | 11.5 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | なし |
遺構 | あり |
現状 | 東照宮 |
駐車場 | 近隣の有料駐車場 |
最寄り駅 | 遠州鉄道 遠州病院駅 |

概要・現地案内板
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。
現在の馬込川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達しました。
「船越」や「早馬」はこの頃の地名です。
戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。
歴代の城主は、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。
この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衛(頭陀寺城城主)がいました。
松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。
徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。
元亀3年(1572)、武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(元目)口」へ撤退したと言われています。
このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。
その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。
明治19年、旧幕臣・井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を歓請し、境内となっています。
※現地説明板より
城犬のおいど 攻城記録
元城町東照宮
元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身・引間城の本丸跡です。戦国時代この城には、後に天下人となる二人の武将が相次いで訪れています。天文20年(1551年)、尾張の農村を出た少年時代の豊臣秀吉公(当時16歳)が今川家臣の居城であった引間城を訪れ、頭陀寺の松下氏に仕えるきっかけを得たとされています。

元亀元年(1570年)には、今川家から独立を果たした徳川家康公(当時29歳)が遠江を平定し、この城に住み、浜松という地名も定めました。この城は期せずして、二人の天下人が戦国武将としての一歩を踏み出した運命の地となりました。ここ引間城跡の東照宮と二公像は「出世の街 浜松」を代表するまさに聖地といえます。
※現地看板より

井上延陵君碑

元城町東照宮由緒
明治維新後浜松藩代たりし旧幕臣井上八郎氏(延陵)に依り明治17年元城町古城(旧曳馬城跡)に創建せられその管理祭祀を大日本報徳社に委ねていたが昭和11年その所有権が井上家より亦管理権が大日本報徳社より大石力氏に引継がれ、その後元城町の氏神として奉斎する事となり村社に列せられた昭和14年に社殿手水舎社務所等を再建し今日に至る
※現地看板より

「二公像」と一緒に写真を撮ろう!
天下人となった家康公と秀吉公の運気は天下無敵。二公像とともに写真を撮ると、出世運がうなぎのぼり。SNS等で拡散すると、運気を広く周囲に振りまくことができます。多くの著名人もこの聖地で出世運を授かっています。ぜひ皆さんも写真を撮って、SNS等で発信してください!
※現地看板より


土塁



浜松城

引間城本丸跡

2025/2最終訪問
城郭周辺地図
静岡県浜松市中央区元城町
近隣の有料駐車場
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