城郭DATA -CASTLE DATA- 
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | オオスジョウ |
別称 | 比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城、亀城 |
スタンプ設置場所 | 台所櫓 09:00-17:00 |
曲輪配置 | 梯郭式 |
城郭種類 | 平山城 |
築城者 | 宇都宮豊房 |
築城年 | 1331年 |
廃城年 | 1871年 |
主な城主 | 宇都宮氏、戸田氏、藤堂氏、脇坂氏、加藤氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 42.8 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | あり |
復元建造物 | あり |
遺構 | あり |
現状 | 史跡大洲城跡 |
駐車場 | 大洲市民会館有料駐車場 |
最寄り駅 | JR 伊予大洲駅 |

概要・現地案内板
大洲城は、鎌倉時代の末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれています。
激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、このころ4層4階の天守を中心とした本格的な近代城郭に整備されたのではないかと考えられます。
元和3年(1617年)米子から加藤貞泰が入城しました。
以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めました。
明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888年)には天守も取り壊されました。しかし、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。城跡も県史跡に指定され、今日も大切に保存されています。
4層4階の天守は、明治期の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料をもとに、平成16年(2004年)に木造で復元したものです。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
二ノ丸


御門番長屋
この建物(手前の白い建物)は、曲輪内の仕切り塀の門に付属する長屋です。名前の通り門番が詰めていた建物です。外観は絵図をもとに再建しました。
※現地看板より

井戸丸

本丸井戸
大洲城の本丸は、上段と下段とに分かれ、井戸のある下段の曲輪を井戸丸と称しています。井戸丸の西側には独立した二層の櫓が一棟ありました。この井戸は、本丸にある唯一の井戸で、直径約3.8mあり、国内でも最大級の本丸井戸として知られています。
※現地看板より

高欄櫓(左の櫓)
高欄櫓は大洲城の中で唯一、2階に縁と高欄のある櫓で、ここからは城内が一望のもとに眺められます。現在の高欄櫓は、台所櫓同様、安政4年(1857)の地震で大破し、万延元年(1860)に再建されたものです。昭和45年(1970)に台所櫓とともに解体修理をおこないました。
※現地看板より

暗り門跡
この門は、天守に到る最後の門で城内でも最も大きい櫓門です。現在とは異なり、かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。通常の櫓門とは異なり、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていました。仮に門を破られても、突き進んできた敵兵の勢いをそぎ、暗りの中で混乱しているところを、攻撃する仕掛けになっていたと思われます。発掘調査では、正面の石垣の一部と石段およびその側溝が確認されました。
※現地看板より

台所櫓(右の櫓)
大洲城の数多くの櫓の中でも最大級のこの櫓は、その名のとおり内部に台所を思わせる土間があり、煙出し用の格子窓が開けられています。現在の台所櫓は安政4年(1857)の大地震で大破し、安政6年(1859)に再建されたものです。昭和34年(1970)に解体修理を行いました。
※現地看板より

大洲城のはじまり
大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。大津における城の創建は、元弘元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡ります。戦国末期の永禄11年(1568)までの237年の間宇都宮氏の居城でした。永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌が預かるところとなりました。
※現地看板より

小早川隆景・戸田勝隆の時代
天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。この戦いで、大野直昌の弟直之が秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯月城を居城とし、大津城を枝城としました。隆景が九州に転封となった天正15年(1587)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。
※現地看板より

藤堂高虎の時代
文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。併せて宇和、喜多、浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。慶長5年(1600)高虎は、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請を始め、大津には養子の高吉を城代に据えました。

慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に、褒状を送っています。このころから大津が城下町としての形態を整え始めたのです。
※現地看板より

脇坂安治の時代
慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多、浮穴、風早の三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。これは、高虎の後、瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったと解する見方もあります。脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封建制度を形付けたと考えられています。脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。

大洲城天守の基本設計を行った(故)宮上茂隆氏は、脇坂安治が当天守を洲本から移築し、併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。
※現地看板より

加藤貞泰の時代
同年、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。以来加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられます。
※現地看板より

ふるさとからの旅立ち


苧綿櫓
苧綿櫓は城山の東南山麓肱川左岸右石垣上に建てられている。昭和32年6月18日、二重二階の櫓と棟札二枚が重要文化財の指定を受けた。大洲城の創建については諸説もあるが、1596年から1617年(慶長元~元和3)にかけての造営と推定される。綿櫓がその頃からあったかどうか明らかでないが、加藤家所蔵の1692年(元禄5)の古地図に記載されているのを見ても、元禄以前に存在していたことは明白である。

現存の苧綿櫓は棟札にあるとおり大破したので、1843年(天保3)に改築されており、実戦的と言うよりもむしろ装飾性が強く、袴腰形石落し、北側の出窓等に表れている。石垣は安山岩を使用した割石乱石積、法勾配及び反り付きで、鯱は大洲藩お抱え瓦師原八兵衛の作である。その後の改築は、大洲市が国庫の補助を得て、1958年(昭和33)8月1日着工、1959年(昭和34)7月31日に竣工、現在に至っている。
※現地看板より

旧加藤家住宅主屋
主屋は、旧大洲藩主の加藤家が大正14(1925)年に建築した木造二階建ての住宅。大名屋敷の名残を残した格調の高さを有する和風建築でありながら、西洋風のモダンさも備えた建物である。昭和50年代には、映画「男はつらいよ」の舞台となり、本住宅の正面玄関や正門、裏門などが撮影に使われている。
※現地看板より

三の丸南隅櫓
大洲城三の丸に位置するこの櫓は、明和3年(1766年)に再建されたもので、大洲城に現存する最古の建物です。外部両端に袴腰形の石落としを備えているのが特徴です。昭和40年(1965年)に解体修理を行いました。
※現地看板より





2019/5最終訪問
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