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陸奥国 向羽黒山城 [ MUKAIHAGUROYAMA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナムカイハグロヤマシロ
別称岩崎城
スタンプ設置場所向羽黒山城跡整備資料館 10:00-14:00(土日のみ)
曲輪配置
城郭種類山城
築城者蘆名盛氏
築城年1568年
廃城年1601年
主な城主蘆名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏
指定史跡国指定
標高407.8 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構あり
現状史跡向羽黒山城址
駐車場向羽黒山城址駐車場
最寄り駅JR 会津本郷駅


概要・現地案内板

戦国時代に伊達氏と並び称された芦名氏が築いた東北地方最大級の山城跡で、当時の政治・文化・社会を考える上でも貴重な遺蹟です。
16代芦名盛氏は黒川城(現 若松城跡)を居城としながらも、本格的な山城として、1561年(永禄4年)、ここ岩崎山(向羽黒山)に築城を始め、8年の歳月を費やし1568年(永禄11年)完成させました。
芦名氏滅亡後も伊達氏・蒲生氏・上杉氏の武将達の攻撃的城としての機能が続き、関ヶ原の合戦後1600年(慶長5年)廃城となりました。
城跡の遺構として曲輪・虎口・土塁・堀切・石垣等々、中世城郭を知る貴重な姿が極めて良好な状況で残っています。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


向羽黒山城跡入口


スタンプ設置場所


続日本100名城スタンプ設置場所

三の丸跡


三の丸は永禄4年(1561)おもに馬の訓練場として造られたところで西北見張りもよく望楼や指揮陣屋など並設されていた。盛氏の兵力養成の広場でもあって、着々完備に意を尽くしたが天正3年(1575)7月嫡男盛興の早逝に遇い再び黒川城(鶴ヶ城)に移ることになり、その計画も中断せざる得なかった。この地にたたずめば苔むした石垣が幽かに散見され、当時の駿馬のいななきが聞こえるようである。
※現地看板より

岩崎山弁天神社・御水神社


二曲輪虎口


二曲輪に入るには虎口と呼ばれる部分に門がありました。坂道部分には、石積石垣があります。南側は、堀切と土塁で囲まれています。
※現地看板より

二の曲輪跡(二の丸)


向羽黒山城は東北の雄、葦名盛氏が永禄4年(1561)に着工し、同11年に完成した軍事的にかたよった縄張りをもつ山城である。この二の曲輪は実質的には近世の本丸(城主の居所)にあたる所と考えられ、一の曲輪の嶮峻さに比べ、曲輪取りも広く、展望性に富んでいて、生活に必要な飲料水を確保している水の手曲輪も近くにあり、生活機能が重視されている。

この平場上から礎石も発見されているのでそれを用いた建造物などが存在したとも考えられる。大川の清流を眼下に、眺望絶佳のこの曲輪は400余年前の盛氏の大きな夢を今に伝えている。
※現地看板より

二の丸からの展望


鶴ヶ城


三日町口虎口


盛氏段階から重要な虎口であり三日町は、町屋の跡です。天正時代に大きな外枡形に改修され、進むと石積石垣のある内枡形の門があります。
※現地看板より

向羽黒山城一曲輪


標高40メートルの山頂にあって、会津を一望でき、戦国大名蘆名氏の本拠地としてふさわしい立地である。曲輪の東南は大川畔まで169メートルの絶壁で、他は土塁や空堀で厳重にかためられ、「詰城」として周到な用意がほどこされている。この山城の象徴的な建築物もあったと考えられ、曲輪東北部には櫓台状遺構が現存する。

東側鞍部上の一の東曲輪には石庭の遺構と考えられるところもあり、この石庭は磐梯山などを借景とする眺望がすばらしい。
※現地看板より

堀跡


一曲輪地区にある長さ70m・幅8mの竪堀である。上杉景勝時代に築かれたとみられる。南側にある他の2本は蒲生氏郷時代と上杉景勝時代に改修されたとみられる。同地区には蘆名時代とみられる虎口もある。
※現地看板より

2018/4最終訪問


城郭周辺地図

福島県会津美里町

向羽黒山城址駐車場のGoogleMAP


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