城郭DATA -CASTLE DATA- 
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | アシカガシヤカタ |
別称 | 足利氏宅、鑁阿寺館、金剛山 仁王院、法華坊、鑁阿寺 |
スタンプ設置場所 | 鑁阿寺本堂内寺務所 |
曲輪配置 | - |
城郭種類 | 平城 |
築城者 | 足利義兼 |
築城年 | 1196年 |
廃城年 | - |
主な城主 | 足利氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 33.9 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | あり |
復元建造物 | なし |
遺構 | あり |
現状 | 鑁阿寺 |
駐車場 | 鑁阿寺観光駐車場 |
最寄り駅 | JR 足利駅 |

概要・現地案内板
平安時代後期、源氏の祖、八幡太郎源義家の子義国、その子足利義康(足利氏祖)の二代にわたって堀と土塁を築いて邸宅としました。
境内地(お堀の中全域と土塁及び外側の堀のまわりの歩道全体)が足利氏邸宅跡として国の史跡に指定されている。(大正11年指定)
義康の子、足利吉兼(尊氏より七代前)が、鎌倉時代初期(1190年代)邸宅を撤去して大日如来を本尊とする真言宗金剛山鑁阿寺を設立しました。
義兼の子・義氏(尊氏より六代前)の代に七堂伽藍は完成し、堀の外に塔中十二坊が堀をかこむ様に建てられましたが、明治維新と共に塔頭・千手院(現、足利幼稚園敷地)を除いて、明治政府に上地させられ、今は家富町という民家になっております。(広さ約5万坪)
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
鑁阿寺 山門
楼門は当山では仁王門又は山門という。開基足利義兼公が建久7年(1196年)創建せるも室町時代兵火にあい永禄7年(1564年)足利幕府13代将軍足利義輝の再建である。構造雄大、手法剛健、入母屋造、行基葺き。両側の仁王尊像は此の建物より古く鎌倉時代運慶の作といわれている。反橋は俗に太鼓橋といい江戸時代安政年間の再修である。

当山境内は面積12300坪(40.467㎡)4周に濠と土塁をめぐらし四門あり。当開基足利義兼公の祖父源義国(八幡太郎源義家の子、足利・新田両家の祖)が別業として平安時代末に構築せるものにして上古の豪族の居館を原形のまま今日に残したもの。実に近世城郭の原始を示しており、足利氏宅趾として大正11年国が史蹟に指定した。楼門及び反橋は栃木県指定文化財である。
※現地看板より



鐘楼
一、建久7年(1196年)足利義兼建立
一、建築様式 形状簡古、手法稚撲 鎌倉時代の和様、唐様折裏の代表的禅宗様式、桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺
一、明治41年国宝建造物に指定さる。
一、大正5年 解体修理実施

一、昭和26年国重要文化財に指定さる。
一、昭和36年 半解体修理実施
一、平成4・5年 半解体修理実施
●梵鐘は元禄時代の再鋳であるが戦時の供出は歴史資料としてまぬかれる。
※現地看板より

大銀杏
開基足利義兼の御手植えと称しているが鎌倉時代末期正和年間(1310年)の当山の古地図には載っていない。故三好学博士の鑑定によれば樹齢約550年といわれる。江戸時代には既に大木となり樹下に於て大日如来のお堂を前にして青年男女の見合いが行われ、縁結びの御神木ともいわれている。目通りの周囲九米。

高さ約三十米。往古より避雷針の役目を果し、諸堂の災厄を守護した。最近、樹勢とみに衰え衆庶の愛護を切に望む。
※現地看板より

多宝塔
開基足利義公創建と伝えられているが現存のは元禄5年徳川5代将軍綱吉の母、桂昌院尼公の再建と伝えられていたが相輪の宝珠を調査したところ、寛永6年(1629年)銘のものが発見され塔の再建年代がさかのぼることが判明した。徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より新田の庄に分家したるが故に徳川氏は祖先発祥の地なるを以て、

此の宝塔を祖先の菩提供養のため再建寄附した。●本尊は金剛界大日如来本尊前に勢至菩薩(俗に二十三夜尊)両側に十六羅漢像を祀る。●奥に足利家の大位牌と徳川歴代将軍のお位牌を祀る。●多宝塔としては我国で一番大きい。(これ以上大きいのは大塔という。)平成七・八年半解体修理を実施した。
※現地看板より

鑁阿寺大御堂


スタンプ設置場所
日本100名城スタンプ設置場所


土塁

東門
開基足利義兼公の創建といわれるが永享4年(1432年)公文所奉行の再修になる。本瓦葺、切妻造り、四脚門で形状は簡古、手法稚朴であり鎌倉時代の武家造りの剛健な風格がしのばれる正和年間(1310年代)の当山伽藍配置図にも東西の両門が描かれている。昭和32年、国の助成を得て文部技官杢正夫の指導で解体修理を実施した。
※現地看板より

水堀

経堂(国指定重文)

中御堂(不動堂)
改修工事中

蛭子堂

北門(薬医門)
当山開基、足利義兼の子、足利義氏は父の建てた鑁阿寺維持の為、堀の外に十二の支院(塔中十二坊)」を鎌倉時代に建て、その筆頭(塔頭)を千手院とした。此の門は千手院(現在の足利幼稚園)の門で弘化2年州九世学頭来昌上人の再建である。明治4年千手院を除いて塔中十一支院を明治政府に上地後、大正7年42世学頭忍空上人は此の門を移建した。

薬医門としては、規模雄大にして、典型的な江戸末期の形式を有している。昭和62年足利市重要文化財の指定を受く。令和5年解体修理を実施した。
※現地看板より

大酉堂

御霊屋

西門
向う側の東門と共に栃木県指定の文化財である。本瓦葺、切妻造り、四脚門。開基足利義兼の創建といわれるが永享4年(1432年)公文所奉行の再修になる。形状簡古、手法稚朴、正に鎌倉期の武家造りの剛健な風格がしのばれる。昭和32年、国の助成を得て文部技官杢正夫の指導で解体修理を実施した。
※現地看板より


2025/3最終訪問
城郭周辺地図
栃木県足利市家富町
[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 栃木県の城郭一覧 ]