城郭DATA -CASTLE DATA- 
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | カラサワヤマジョウ |
別称 | 根古屋城、栃本城、牛ヶ城 |
スタンプ設置場所 | 唐沢山神社社務所 |
曲輪配置 | 連郭式 |
城郭種類 | 山城 |
築城者 | 藤原秀郷 |
築城年 | 927年 |
廃城年 | 1602年 |
主な城主 | 佐野氏、後北条氏、大貫氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 243.0 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | なし |
遺構 | あり |
現状 | 唐澤山神社、史跡唐沢山城址 |
駐車場 | 唐沢山城跡 駐車場(無料) |
最寄り駅 | 東武鉄道 吉水駅 |

概要・現地案内板
唐沢山城は、佐野市の北、高さ240メートルの山全体をいい、往時の広さ550町歩と云われ、周囲を急崖にかこまれ、眺望は、関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父南アルプス、秀峰富士、東に筑波と、まことに自然の要塞である。
当社御祭神 秀郷公により一千年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱を鎮定し大功をたてられ、その功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで威勢を張られた。
その後700年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として16世紀中ごろに現在の形を整えたとされている。
関東7名城の一つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかがわれる。
江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換となって、唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され四季おりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場

喰い違い虎口
北の避来矢権現山と南の天狗山に挟まれた虎口(出入口)で、城郭主要部への大手口にあたる。石垣をくい違いにして城門を築き、敵軍が直線的に進入できないような工夫がされている。
※現地看板より


天狗岩
「大険山」とも例えられる岩山で、頂上からの良好な眺望を活かし、広く周囲を見張る役割を果たしていたと考えられる。
※現地看板より





大炊の井
直径9m、深さ8m以上の大きな井戸で、現在まで涸れずに豊かな水をたたえている。明治期の井戸浚いの際に、底部に八角形の松材の木枠が3段積まれていることや、中央がさらに堀り込まれていることが確認されている。
※現地看板より


神橋
かつては曳橋であったとされいざという時に橋を引き払い通行を遮断したと伝えられています。大正15年皇太子殿下(昭和天皇)ご成婚記念として地元の高齢者より寄与されました。
※現地看板より



帯曲輪跡


三の丸跡



二の丸跡

二の丸から見上げた本丸
右手の虎口(出入口)から二の丸に入ると、頭上には本丸の櫓や城門などがそびえる。二の丸から本丸へ上る通路は、かつては鉤の手に折れていた様子を描く絵図も残る。また、本丸の虎口には見る者を圧倒する巨大な鏡石が据えられている。
※現地看板より

鏡石

本丸跡
現在は藤原秀郷公を祀る唐澤山神社の社殿が所在するこの場所には、かつては奥御殿が建ち、西側が大手虎口であった。
※現地看板より

唐沢山神社
当神社は御祭神藤原秀郷公の流れをくむ佐野氏により戦国時代初期に築城された本丸跡に建てられています。公は「むかで退治」の伝説や「天慶の乱」の鎮定等から武勇に優れていたことが知られています。また、この乱の鎮定の功により鎮守府将軍に任ぜられました。

その後700年の間、多少の変遷はありましたが、江戸時代初期に廃城となりました。明治16(1883)年、佐野氏の一族旧臣等が公の遺徳を偲び唐澤山神社を建てました。
※現地看板より


社務所

スタンプ設置場所

南城跡
本丸より南方向にある所から南城と呼ばれる。城はいくつかの曲輪(一定の地域を限り、その周囲と区別する為に設けた囲い)により構成されています。その呼び名には一般的に人名、方向等によって呼ばれることが多い。この南城跡は南北18メートル東西36メートルあり、周囲は石垣をめぐらし東側には堀を設けてあります。天気のよい時には、ここから東京の高層ビルが眺められます。
※現地看板より



車井戸
深さ25m余ともいわれ、本丸下に位置していることからも、城内の重要な水源であった。別名「がんがん井戸」ともいう。
※現地看板より

高石垣



長門丸・局曲輪の間の虎口
本丸の搦め手にあたる東側の守りを固める長門丸と、北側の局曲輪(引局)との間に造られた虎口(出入口)。現状ではわかりにくくなっているが、その両脇の土塁はくい違いに築かれている。
※現地看板より

長門丸跡(お花畑)
東・北・西には土塁をめぐらしてあり、東側には堀、西側には井戸に通ずる堀底道と思われるものがあります。城に於て使用される薬草等を作った事からお花畑と呼ばれています。
※現地看板より

金ノ丸跡
宝蔵のあった所から金の丸と呼ばれています。東・西南には堀、東側には土塁が現在も残っています。東側堀は、昭和38年青年の家建設の際埋められました。
※現地看板より


杉曲輪跡
杉曲輪は本丸の東側に連なる曲輪の一つで、かつては御仏殿があったとされる。曲輪の東側には土塁や虎口(出入口)が残り、また、東隣の平とや丸(北の丸)や西隣の平城(宝蔵曲輪)とはそれぞれ堀切で区切られている。
※現地看板より


北城跡

二重の堀切
平とや丸(北の丸)の北東側に連続して備えられた二重の堀切で、北や南の急斜面にまで延びて竪堀状に落ちている。本丸を中心とする城郭の主郭部と、北東に位置する鳩の峰方面を大きく分断している。
※現地看板より

鳩の峰

鏡岩
上杉謙信が唐沢山城をせめたとき西日が反射してせめることが困難であったという物語から名付けられた。
※現地看板より



2025/3最終訪問
城郭周辺地図
栃木県佐野市富士町
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