城郭DATA -CASTLE DATA- 
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | カナヤマジョウ |
別称 | 太田金山城、新田金山城 |
スタンプ設置場所 | 中島記念公園の休憩施設 365D24H |
曲輪配置 | 連郭式 |
城郭種類 | 山城 |
築城者 | 岩松家純 |
築城年 | 1469年 |
廃城年 | 1590年 |
主な城主 | 岩松氏、由良氏、高山氏、宇津木氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 235.0 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | なし |
遺構 | あり |
現状 | 史跡新田金山城跡 |
駐車場 | 金山展望台駐車場(無料) |
最寄り駅 | 東武東上線 三枚橋駅 |

概要・現地案内板
今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。
その後、下剋上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。
上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12年(1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が定番として配置されました。
天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡と共に廃城となりました。
江戸時代には金山「御林」として徳川幕府直轄地となり、現在に良好な城跡遺構を遺す結果となっています。
昭和9年(1934)には、歴史的価値の高さと遺構の残存状況が良好なことから、県内では初めて城跡として「史跡」の指定を受けました。
廃城後約400年を経過し、遺構の多くが樹木や竹・下草で覆われ、城の面影は失われていましたが、調査の結果、大規模かつ複雑な虎口形態を持っていたことや、さらに、曲輪斜面の石垣、石敷通路や土塁石垣など、随所に石を多用している山城であったことが明らかとなって来ました。
往時(中世末)における関東の山城としては、きわめてめずらしい「石垣の城」という様相が明らかとなりつつあります。
太田市では、この貴重な文化遺産を護り、難攻不落の堅固な金山城の姿を可能な限り再現し、市民の「憩いの場」「歴史学習の場」として広く活用されることを願っております。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
ガイダンス施設

大手口石塁

桜ノ井戸
古来、金山城には七つの井戸があると言われているが、その一つが桜ノ井戸である。中八王子山矢倉台西面の山腹にあり、形式は他の井戸と同じで金山石で丸く囲まれた湧水である。大手門番士と中八王子山矢倉台番士とが便利に使用できる様に、その中間の距離にある。

この井戸の南側山腹より大手門にかけて石塁が残存している。
※現地看板より

金山展望台駐車場


西城


見附出丸
見附出丸は、金山城の西側を守る最前線としての性格が考えられる場所です。北土塁と筋違いに位置する南土塁は、発掘調査の結果、北土塁のように石垣はなく、厚く堆積した砂層の上に土を叩き締めながらつくられていることがわかりました(土塁版築層)。

そして北脇には「排水」を意識していたと考えられる拳大の凝灰岩が見られました。また、土塁の上面からは柱穴列が見つかりました。この柱穴列により、柵があった可能性が考えられます。
※現地説明板より


旧通路
西矢倉台西堀切内の通路を隠すように盛られた、土塁状の高まりの下からは、通路の縁石と思われる石列が見つかりました。この石列により、西矢倉台堀切内の通路よりも古い時期に桟道からまっすぐ西へ進む通路があったと考え、発掘調査によって通路を確認しました。

この通路は、岩盤に丸太をかけて造られた桟道とは異なり、地山を削り出して通路を造っていたことがわかりました。桟道は、急斜面で岩盤が張り出しているため岩盤を加工して通路を造り、岩盤の張り出していないこの部分では、地山を削り出して通路を造っています。このように、当時の地形を利用して通路を造った様子がうかがえます。
※現地説明板より

西矢倉台西堀切
西矢倉台西堀切は、西城から実城(本丸)までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。この堀切は他と異なり、堀底に石を敷いて通路として利用しており、通路の先は桟道(急斜面に沿って掛けられる通路)へと続いています。

また、通路の北側には柱穴(柱を支えるために掘られた穴)があり、敵兵の北側から侵入を防ぐための柵があったと考えられます。堀切の西脇には、堀切を掘り下げる際に出た土や石を土塁状に盛り上げ、堀切内を敵兵から「隠す」ための工夫がなされていたようです。また、この土塁状の高まりの下から通路の縁石が見つかり、堀切内の通路よりも古い通路があったことがわかりました。古い時期には、桟道から西へ通路が延びていたようです。
※現地説明板より

西矢倉台下堀切
西矢倉台下堀切は、西矢倉台の西下に造られた防御施設で、西城から実城(本丸)へ向かう間の二番目の「堀切」となります。この堀切は、大堀切、物見台下堀切と比べて規模は小さく、堀切は実城に近づくにつれ幅が広く、深く造られています。断面の形は、上部が逆「ハ」の字であるのに対して、下部は箱状に掘られ、簡単に攻め登られないように工夫されています。

また、この堀切は西矢倉台西堀切のように通路として使われた跡はありません。堀切北端を横断する通路は、埋ってしまった堀切の上を整備した園路で、当時の通路ではありません。堀切は北までずっと続いており、今みなさんが立っている足元の約1.5m下が堀底となっています。
※現地説明板より

西矢倉台通路
西矢倉台通路の発掘調査では、新旧2時期の通路が確認されました。この2つの通路は、外側(谷側)が旧時期、内側(山側)が新時期であると考えられます。2つの通路の間には、岩盤を加工した柱穴が並ぶように12個見つかっています。また、この柱穴列は新時期の通路面の下からも確認されています。

柱穴列の性格については、「通路脇の柵」あるいは新時期通路を安定させるための「土木工事」に伴う物と考えられます。一般的に、通路を造り直す時は外側(谷側)に造り直すのですが、西矢倉台通路では、石垣の外側は急な斜面になってしまうため、より安定する内側(山側)に通路を造り直し、石垣も積み直しています。
※現地説明板より
西矢倉台跡


馬場下通路
物見台下土橋から竪堀までの間には石敷きの通路が発見されました。この通路は防御上、土橋から見通せないように曲がった通路となっています。通路は、竪堀にかかる木橋方向と、堀底へ下りる階段へ分岐しています。

石敷き通路の南側には、谷側からの敵に備えて通路を隠すと共に、敵を威圧するための土塁石垣が通路に沿って約22m設けられていました。なお、土塁石垣の中央部は、石垣の崩れた状態で整備しています。
※現地説明板より

木橋

竪堀

木橋の東側では、石敷き通路が岩盤斜面を登って物見台から馬場曲輪へ通じる通路へと合流します。また、この通路は東端で行き止まりになっており、通路に面して建物の礎石や岩盤を刳り貫いた柱穴が発見され、この狭い通路沿いに2棟の建物が存在していたことがわかりました。いずれも建て替えが行われており、最終時期の建物位置を表示しています。
※現地説明板より


大手口馬場跡

物見台
物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されています。また、物見台の基壇からは、釘や火縄銃の弾丸が出土しています。

この物見台からは、金山城の周囲が良く見渡せるため、敵(上杉謙信:天正2年)は、物見台から死角となる藤阿久へ陣を構えました。
※現地説明板より


馬場曲輪
物見台から、東に向かう通路は、北斜面際の石敷通路を経て、馬場曲輪へと至ります。馬場曲輪の調査では、岩盤を刳り貫いた柱穴が240個以上見つかり、位置関係から建物や柵列があったことがわかりました。また、建物は少なくとも5回の建て替え、

曲輪の生活面は3回の造成があり、頻繁に造り替えを行っていたことも明らかになりました。廃城時期の馬場曲輪における、建物3棟のうち両側の2棟は平面表示としました。また、中央の1棟は柱穴の位置を利用して、新たに四阿を建てました。そのほか、曲輪の中央部分に石組み排水路、曲輪全体を囲む柵列の存在も明らかとなり、あわせて整備しました。
※現地説明板より

大堀切


月ノ池

大手虎口

大手虎口北下段曲輪

大手虎口南上段曲輪

井戸跡

南曲輪休憩所


金山城跡地形模型

スタンプ設置場所
日本100名城スタンプ設置場所

日ノ池
日ノ池は、15m×16.5mのほぼ円形の池です。発掘調査によって、石垣や石敷、2箇所の石組み井戸、石階段などが発見されました。さらに石敷の下からは、日ノ池へ通じる通路跡や改修工事が行われた跡、また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を貯める構造になっていることも分かりました。

これらの調査の結果をもとに、往時の姿を可能な限り再現しています。石垣や石敷はできる限り当時のままで残しました。日ノ池は、山の上では希な大池であり、金山城における象徴的な場所の一つです。ここは、単に生活用水を確保した場所ではなく、戦勝や雨乞などの祈願を行った儀式の場所であったと考えられます。また、水の信仰とかかわる平安時代の遺物も発見されており、日ノ池が立地する場所は、築城以前から神聖な場所であったようです。
※現地説明板より

本城
金山城の中枢で、水ノ手郭を中心として約一万坪ある。実城とも言い城主の御殿があった所なので城主を実城殿とも呼んだ。御殿の礎石は、大欅の南方平地に列石状に出土した。主要郭は六ヶ所、腰郭は三ヶ所、武者造り、堀切りは壕内道を兼ねている。本城内に於て、実城、内方、小座、旦那、御入、局等の名称が見られる。
※現地看板より

御台所跡

金山の大ケヤキ


新田神社

城址碑

天主曲輪
本城最高位の郭で、戦前、本丸と言われたところである。西北の角には、金山城最大の石垣が使用されており、角矢倉形式の大建造物があった。この郭は、金山城鎮護の神聖な地域であり、源氏の守り神である八幡宮が祭られていた。このため、水ノ手郭の貯水池は、「神水」と呼ばれていた。

廃城後は、新田義貞を祀る新田祠と言う小さな石宮があった。構造上の特徴としては、東北の角を削って「ひづみ」を作り、「鬼門除」がある。
※現地看板より

御嶽神社

梅若稲荷神社



金山城石垣
金山城は、全域を石垣で築かれた関東地方では珍しい城である。石垣用材は、金山石が手近にあるので使用したものであるが、大きな石は、柱状節理の山麓の根石を山頂、山腹まで持ち上げた大工事である。積み方は、「野面積」で長い石の大きい面を奥に、小さい面を表にしてあるため、別名、「ゴボウ積」とも言われる。

断面は、直線的で、緩傾斜し、栗石を充分使用しているために堅固である。
※現地看板より


大手口馬場下

馬場下曲輪
馬場下通路の南下に立地する馬場下曲輪は、発掘調査の結果、岩盤を刳り貫いた建物の柱穴が見つかりました。また、竪堀に沿って石垣でできた土塁が延びていることがわかりました。現在整備した土塁は、石垣が崩れた状態を表現しています。

この曲輪からは、地鎮などのまじないに使われたと思われる輪宝墨書土器(素焼きの坏に「輪宝」が墨で描かれています)や、鍛冶工房で使ったと考えられるフイゴの羽口などがみつかりました。
※現地説明板より

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