城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
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ヨミカナ | オオサカジョウ |
別称 | 大阪城、金城、錦城、浪華城 |
スタンプ設置場所 | 天守1階 09:00-17:00 |
曲輪配置 | 輪郭式 |
城郭種類 | 平山城 |
築城者 | 豊臣秀吉 |
築城年 | 1583年 |
廃城年 | 1868年 |
主な城主 | 豊臣氏、奥平氏、徳川氏 |
指定史跡 | 特別 |
標高 | 38.8 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | あり |
復元建造物 | あり |
遺構 | あり |
現状 | 大阪城公園 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場(大阪府庁駐車場がおすすめ) |
最寄り駅 | JR 大阪城公園駅、谷町四丁目駅、森ノ宮駅 |

概要・現地案内板
大阪城は、大坂本願寺(石山本願寺)を前身とし、織田信長と戦った石山合戦、豊臣秀吉による築城、大坂の陣による落城、徳川幕府による再築、明治維新の動乱による焼失、明治維新後の陸軍管轄、戦後の公園整備などを経て、現在に至っています。
現在、石垣や堀、大手門・多聞櫓・千貫櫓などといった古い建造物はすべて徳川時代以後のもので、周囲は国の特別史跡に指定されており、古い建造物のほとんどは重要文化財に指定されています。
そして、令和7年4月には「大阪城 豊臣石垣館」がオープンしました。
平成25年から進めて来た、豊臣秀吉が築いた初代大坂城の石垣を掘り起こして公開する「豊臣石垣公開プロジェクト」が完成したことにより、1615年の大坂夏の陣で豊臣方が敗れ、豊臣大坂城の歴史を塗り替えるように徳川大坂城が築かれて以来、地下に眠っていた豊臣大坂城の石垣を直接見ることができというものです。
大坂本願寺(石山本願寺)からはじまり、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という天下人が携わり、現在昭和6年に再建された3代目の天守が聳える大坂城公園。
天守の中は、貴重な資料の数々が展示された博物館になっています。
城犬のおいど 攻城記録
西外堀
大阪城二の丸の西に位置する水堀で、南が大手口、北東が京橋口である。石垣の総延長は1.5キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、元和6年(1620)、徳川幕府による大坂城再築第1期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。

幕府の命令によって動員された大名は肥後熊本藩加藤家・筑前福岡藩黒田家・豊前小倉細川家など29家。内側の石垣上には南から千貫櫓(現存)・坤櫓(焼失)・乾櫓(現存)が建てられた。
※現地看板より

大手門
城の正面を大手(追手)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。正面左右の親柱の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱との間にも屋根を乗せた高麗門形式である。屋根は本瓦葺で、扉や親柱を黒塗総鉄板張とする。

開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている。
※現地看板より

多門櫓
大手口枡形【ますがた】の石垣の上に建つ櫓で、大門の上をまたぐ渡櫓と、その右側に直角に折れて接続する続櫓によって構成される。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが、天明3年(1783)の落雷によって全焼し、嘉永元年(1848)に再建された。土塁や石垣上に築かれた長屋状の建物を一般に多聞(多門)と呼ぶが、

その名称は戦国時代の武将松永久秀が大和国(今の奈良県)の多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来するといわれる。現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で、高さは約14.7メートル、建築総面積は約710.25平方メートルある。渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下のほか9畳・12畳・15畳の部屋が計6室あって多数の兵や武器をたくわえることができ、枡形の内側に多くの窓があり、また大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落し」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えている。大阪城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓があったが、現存するのはここだけである。
※現地看板より

大手口枡形の巨石
枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の侵入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見附石は、表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、

右の大手三番石は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島と推定されている。現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠宏が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊氏が改築した。
※現地看板より

西ノ丸庭園入口
古く豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び秀吉没後、慶長4年(1599年)には秀吉の正室「北の政所」が一時住み、その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦まで、徳川家康が移り住んだことが知られています。徳川時代に入り、元和5年(1619年)、内藤信正が初代の「大坂城代」となり、翌元和6年(1620年)すっかり築き直しました。

その後、明治維新(1868年)まで、70代の城代が交替で城の管理にあたりました。 明治以降は軍用施設として使用されていましたが、徳川時代の「西の丸」跡地と、その南側に続いていた「城代屋敷」跡地などを一つにまとめ、昭和40年(1965年)西の丸庭園として開園しました。
※現地看板より

西の丸
大坂城二の丸の内、本丸の西に広がるこの一帯を特に「西の丸」と呼び、本丸に次ぐ要地であった。豊臣秀吉の弟秀長の屋敷がここに置かれたと推定され、秀吉没後には正室の北政所(おね)が一時住み、続いて徳川家康が伏見からここに移って本丸の天守に対抗する天守を築いた。

大坂の陣後、徳川幕府によって大坂城が再築されると、ここには幕府の蔵が建ち並び、これらの蔵は鍵の数から「いろは四十八蔵」とも呼ばれた。
※現地看板より

千貫櫓
大坂城の大手口を守る重要な隅櫓である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和6年9月13日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。

二の丸北西に現存する乾櫓と同様に大坂城最古の建造物で、いずれも工事責任者は茶人としても有名な小堀遠州である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、

一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。
※現地看板より



焔硝蔵
徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。焔硝蔵はそれ以前にも城内数か所にあったが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660)に落雷を受けて大爆発を起こし、また別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による立て直しがたびたびなされるなど、

幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁をすべて花崗岩とし、石壁の厚さは約2.4メートル、屋根の下は土で固められている。面積は約171.9平方メートル、高さは約5.4メートルで、こうした石造りの火薬庫はわが国では他に例がない。徳川時代の大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝のほかにも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていた。
※現地看板より

黄金の茶室

乾櫓
乾(戌亥)は西北をあらわす言葉で、西の丸の西北に位置することからこの名がついている。大手口から京橋口までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、また、堀をへだてた城の外側の南・西・北のどの方角からも望めたことから「三方正面の櫓」とも呼ばれた。戦後の解体修理の際、「元和6年甲(申)ノ9月吉日 ふかくさ 作十郎」とへら書きされた瓦が検出され、創建が元和6年(1620)であることがわかった。

すなわち乾櫓は千貫櫓と同じく、徳川幕府による大坂城再築工事が開始された年に築かれた、大坂城に残る最も古い建造物である。高さは約10.3メートルで2層2階建て、面積は1階の石落し部分をのぞくと各階とも約186.23平方メートルで、L字形の総2階造りという非常に珍しい構造をもつ。この時期に築かれた櫓の工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州である。
※現地看板より


南仕切門跡・太鼓櫓跡
二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの個所に建っていたのが南仕切門である。また門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)に創建されたと考えられる。太鼓櫓は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていた。

ここには太鼓坊主とよばれる僧形の役人が交替で詰め、彼らは香をたいて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本以下の招集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らした。いずれの建物も慶応4年(=明治元年、868)、明治維新の大火によって焼失した。
※現地看板より

石山本願寺推定値
明応5年(1496)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現われる初例である。 『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。 その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、

天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。 石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。この造営が現在の大阪の町並の原形となったと考えられる。 その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。 一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。

この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。 このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。
※現地看板より

空堀
本丸を囲む内堀は、東から北、さらに西にかけて水堀になっているのに対し、南とそれに続く西にかけては水のない空堀となっている。ここは寛永元年(1624)、徳川幕府による大坂城再築工事の際に築かれたもの、当初から空堀であった。これに先立つ豊臣秀吉築造の大坂城でも本丸の南は空堀となっており、大坂の陣で徳川方が埋めたわけでもない。なぜここだけ空堀としたのかは不明である。※現地看板より

桜門
本丸の正面にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626年)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。

桜門の名所は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられている。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。
※現地看板より

桜門枡形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩が用いられている。

正面の石は蛸石とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石(袖石)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。
※現地看板より

銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などを井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。

昭和6年(1931)、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今は配水池に埋もれていて目にすることができない。
※現地看板より

本丸御殿跡
城の中心部を本丸といい、大坂城の本丸には天守のほか、政治を行うための御殿があった。豊臣時代の本丸御殿は大坂の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸に盛土をほどこし再び築かれた。幕府には14代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台にもなっている。

慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の動乱の中で全焼し、明治18年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも昭和22年(1947)に焼失した。ここは江戸時代の本丸御殿の玄関付近にあたる。
※現地看板より

金蔵
江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫として役割を果たした。「かねぐら」「かなぐら」とも読む。宝暦元年(1751)、この場所から南に延びていた長屋状の建物を切断・改造して築造され、以来、北西側に以前からあった金蔵を「元御金蔵」、この金蔵を「新御金蔵」と呼んだ。

高さは約5.8メートル、面積は93.11平方メートルで内部は大小2室からなり、手前の大きな部屋には通常の出納用、奥の小さな部屋には非常用の金銀を置いた。構造は防災と防犯に特に工夫がこらされ、床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられている。なお元御金蔵は、明治25年(1892)の配水池建設にともなって今の金蔵の東隣に移築され、さらに昭和4年(1929)、陸軍によって高槻工兵隊の敷地内に解体移築され、のちに焼失した。
※現地看板より


残念石
両横に鎮座しているこの石は元和6年(1620)から始まる大阪城修復の時天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願かなわず、いまなお数多く残されていることから「残念石」と呼ばれている。 この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場で見つかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。

これらの石を、小豆島青年会議所が創建10周年の記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い、「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。
※現地石碑より


山里口出枡形
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための、石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。

南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。なお西は埋門となっていて隠し曲輪へと通じている。
※現地看板より

隠し曲輪
大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸幕府による大坂城を再築時のものである。出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれた。一時期幕府の焔硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。

なお、ここでは、石垣の築造を担当した加藤家(伊予大洲藩)、小出家(丹波園部藩・但馬出石藩)の刻印を間近に見ることができる。
※現地看板より

山里丸
内堀に囲まれた大坂城本丸のうち、天守北側の一段低い区域を特に山里丸(山里曲輪)と呼ぶ。豊臣時代には、山里の風情をかもし出す松林や、桜、藤などの木々がしげり、いくつもの茶室が建っていた。天正11年(1583)に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天守完成よりも早く、ここで茶室完成の御披露目を行っている。

秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用し、没後は遺児秀頼により、父秀吉を祀る豊国社も建てられた。慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと伝える。のち徳川幕府の手によって大坂城は全面的に築き直され、ここには一年交替で城を守衛する大名、山里加番の主従が生活する小屋(公舎)が建てられた。
※現地看板より

刻印石広場

秀頼・淀殿ら自刃の地
慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。
※現地看板より

極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である.豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約8メートル(4間)の木造で、慶応4年(=明治元年、1868)に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる昭和40年(1965)に再架橋された。

現在の極楽橋は長さ約54メートル、幅約5.4メートルで、橋脚・主桁を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な疑宝珠高欄としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、真宗本願寺派の本山、大坂(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。
※現地看板より

内堀
本丸を取り囲む堀で、南側を空堀とするほかは水堀となっている。寛永元年(1624)開始の徳川幕府による大坂城再築第2期工事により、豊臣時代の本丸に盛り土をほどこして石垣が築造された。幕府の命令によって動員された大名は豊前小倉藩細川家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家をはじめとする59家で、総延長は約2.7キロメートル、東側石垣の高さは水面から約24メートルに達する。

本丸内には堀に面する石垣の角を中心に3層の櫓が11棟、2層の櫓が2棟そびえていたが、明治維新の大火により全て焼失した。
※現地看板より

ばけもの屋敷
伏見櫓の内側一帯には、江戸時代のはじめ金奉行の役宅が置かれていたが、やがて空き地となり、いつしか「ばけもの屋敷」とよばれるようになった。大坂城を管理する重職である京橋口定番の屋敷(公邸)はこの南側に隣接しており、代々の定番にはここに住み着く妖怪がとりつくと恐れられていたが、享保年間(18世紀はじめ)に着任した戸田大隅守という大名が退治したと伝える。
※現地看板より



京橋口
大阪城の西北の出入口。北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。
※現地看板より

京橋口枡形の巨石
京橋口枡形の内、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳33畳敷(54.17平方メートル)にもなる場内第2の巨石「肥後石」である。築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩池田忠雄によって運ばれた。肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が22畳敷(36.00平方メートル)の、城内第7位の巨石である。
※現地看板より

京橋口定番屋敷跡
江戸時代、ここには幕府の要職である大坂定番に就任した大名の屋敷(公邸)があった。大坂定番は定員が2名で、そのうち京橋口定番とともに城に勤める下級役人を統率し、大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して西日本の支配にもたずさわった。

敷地内には公務を行う表御殿、家族が暮らす奥御殿が建ち、家臣の詰める小屋などもあったが、いずれも明治維新の大火によって焼失し、跡地には軍により士官学校の施設がつくられた。
※現地看板より

伏見櫓跡
徳川大坂城の二の丸に建っていた櫓の内、唯一3層だった櫓で(他の櫓は全て2層)、伏見城からの移築と伝える。付近の街道からのぞむ優美な姿が江戸時代以来親しまれ、明治維新の大火でも類焼をまぬがれたが、昭和20年(1945)の空襲で全焼した。
※現地看板より

青屋門
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年(1945)の空襲で再び大破した。

昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆぶ算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。
※現地看板より

市正曲輪
現在の大阪城梅林の地は、豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐市正且元の屋敷があったと伝えることから「市正曲輪」とよばれる。江戸時代には、大坂城を守衛する役職の内、青屋口加番・中小屋加番・雁木坂加番の小屋(公舎)が北から順に置かれていた。
※現地看板より


雁木坂
大阪城の本丸を取り囲む二の丸は北が低く、内堀の東にあたるこの通路は南から北にかけて急な下り坂となっている。江戸時代ここは長い石段(雁木)だったことから雁木坂とよばれ、坂を上りきった所には上部に部屋を持つ雁木坂門があり、脇には通行を監視するための番所が置かれた。明治維新以後の陸軍管轄時代にはダラダラ坂とも呼ばれた。現在、盛土によって坂の勾配はゆるやかになっている。
※現地看板より

蓮如上人袈裟懸けの松
本願寺第8代蓮如上人は明応5年9月この地をえらんで一宇の坊舎を建立し明応8年2月まで居住す。天文元年8月第10代証如上人は山科より本願寺をこの地に移し大坂(石山)本願寺と称す。ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。永禄13年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。而して11年間攻防の末天正8年3月勅によって和議なる。天正11年豊臣秀吉大坂城を築く。のち時代は変れども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。

而して11年間攻防の末天正8年3月勅によって和議なる。天正11年豊臣秀吉大坂城を築く。のち時代は変れども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。
※現地看板より

豊國神社

豊臣秀吉公像

太閤の「醍醐の桜」
豊臣秀吉が慶長3年(1598)4月20日に行った「醍醐の花見」。世界文化遺産京都醍醐寺、三宝院玄関前の大しだれ桜は樹齢160年を迎えるが、近年、住友林業(株)の先進のバイオ技術により、そのDNAの継承が可能となった。この度、住友林業・豊国神社のご厚意を得て、大坂の陣400年を記念し、ここ太閤ゆかりの地に植樹できる運びとなった。
※現地看板より

一番櫓
二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓が、東から西へ一番から七番まで建っていた。この櫓は最も東に位置することから「一番櫓」という。外側にあたる東面と南面を中心に窓が16あるほか、鉄砲や矢を放つための狭間も多数あけられ、玉造口に攻め入る敵を側面から一斉に迎撃することができた。東面には石垣を登ろうとする敵を撃退する石落しも設けられている。

創建は徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)と考えられ、戦後の解体修理の際に発見された部材の墨書銘により、創建後の主な修復は万治年間(1658~61)・寛文8年(1668)・天保3年(1832)の3度だったと推定される。中でも天保3年は解体をともなう大規模なもので、建物下の粟石の間から当時のものと見られる衣類が検出されている。面積は1階が約167.98平方メートル、2階が約96.31平方メートル、高さは約14.3メートルである。なお、一番から七番までの櫓のうち、現存するのはこの一番櫓と六番櫓のみである。
※現地看板より

算用曲輪(杉山)
玉造口の南側一帯は、豊臣時代から「算用曲輪」「算用場」などとよばれていた。 名称の由来は、秀吉による大坂城築城時に賃金などの計算(算用)が行われた場所だったからとも、また大坂城に納められた年貢や金銀などの計算が行われていたからともいわれている。江戸時代、ここは大きな杉の大木がそびえる小山となったため「杉山」とも呼ばれるようになり、 大坂城を仰ぎ見る行楽地として多くの庶民が集い、親しまれた。※現地看板より

豊臣時代三の丸北端の石垣
この石垣は、大坂城三の丸の石垣の一部をここに移築し、発見されたままの姿に復元したものです。豊臣時代の大坂城三の丸は、豊臣秀吉の晩年にあたる慶長3年(1538)に大坂城の防御強化のために造られました。しかし、慶長19年(1614)に大坂冬の陣の講和条件として徳川家康によって取り壊され、地中深く埋もれてしまいました。

平成元年(1989)の大阪府立女性総合センターの建設に伴う発掘調査で、再び姿を現わしました。地表した約2mのところに東西21mにわたって発見されたこの石垣は、上部は崩されていましたが、いままでみつかった豊臣時代の石垣の中でももっとも残存状態のよいもので、当時の大坂城の面影を今につたえています。
※現地看板より

2023/7最終訪問
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大阪府大阪市中央区大阪城
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