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越前国 福井城 [ FUKUI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナフクイジョウ
別称北庄城、庄城、福居城
スタンプ設置場所福井県庁舎 08:30-17:15
曲輪配置輪郭式
城郭種類平城
築城者結城秀康
築城年1601年
廃城年1871年
主な城主越前松平家
指定史跡不明または未指定
標高16.4 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物あり
遺構あり
現状福井県庁等
駐車場付近の有料駐車場
最寄り駅JR 福井駅


概要・現地案内板

天正3年(1575)に織田信長は重臣柴田勝家へ越前8郡をあたえましたが、その際に勝家は足羽川と北陸道が交わる交通の要所であった北庄(後の福井)に城を築きました。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で東軍(徳川方)が勝利すると、結城城主であった結城秀康(1574~1607)は、父徳川家康から越前国68万石を拝領して、初代福井藩主となりました。
翌年、越前に初入国した秀康は、直ちに福井城(当時の名称は北庄城)の大修築に取り掛かり、同11年には4層5階の天守のある壮大な城が完成しました。
福井城は平地に造られた平城で、本丸を中心に、お堀と郭(曲輪)が4重、5重に取り囲む環郭式城郭と呼ばれるものです。
本丸の西側、福井市役所の北側に位置する中央公園は、西二ノ丸や西三ノ丸のあった場所で、西三ノ丸には藩主の住居である御座所が設けられていました。
また、西三ノ丸の西方には、大名広路(現在のフェニックス通り)があり、通りに面して家老職などを勤める上級家臣(高知席)の屋敷が建ち並んでいました。

※現地案内板より


城犬のおいど 攻城記録


御本城橋


瓦御門跡


月見櫓跡(坤櫓跡)


結城秀康騎馬像


慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、越前68万石の大名となった結城秀康公(徳川家康の次男)は、翌6年に北庄(後の福井)に入り、新しい城の建設と、柴田勝家にはじまる城下町の大改造に着手した。

多くの民の力と汗に支えられ、およそ6年の歳月をかけて完成した城下は、都市としての福井の原型をかたちづくり、今日の福井市発展の礎となった。
※現地石碑より

福井城址のご案内


ここは、福井城の本丸跡で、周囲の内堀は往時のままです。 福井城は慶長6年~11年(1601~06)に徳川家康の次男、 結城秀康によって築城されました。 秀康時代の福井城の建物は寛文9年(1669)に焼失してしまいましたが、 図は焼失以前の福井城本丸の様子を復元したものです。

藩の権威を象徴していたのが本丸の北西隅に聳えていた天守で、 高さが約30mという壮大な建物でした。 中央には藩政において最も重要な本丸御殿がありました。 北東・南東・南西の各隅間には3つの橋が建っていました。 南側の御本城橋が本丸への正式な通路で、この橋を渡ると、 本丸の正門である瓦御門がありました。 西側には屋根付きの御廊下橋もかかっていました。 現在の御廊下橋は平成20年に資料に基づいて再建されたものです。
※現地看板より

福井城跡碑


福井城天守


福井藩の初代藩主結城秀康は、慶長6年(1601)から約6年をかけて福井城(北庄城)を築城し、 本丸には壮大な天守が偉容を誇っていた。残されている天守絵図によれば、外観は4層であるが、最下層の階高を高くとって2階分の床を張っており、 内部が5階になっている。 絵図では高さが、約28メートルあり、天守台を含めると約37メートルにもなる。

今に残る天守台と控天守台には、大きな礎石が並んでおり、 天守台の北半分に天守が建っていたのであろう。 四層五階の壮大な天守も、寛文9年(1669)4月の大火で焼失して以来、再建されることはなかつた。
※現地看板より

「福の井」の歴史


「福の井」は慶長6年(1601)の北ノ庄城(後の福井城)築城当時からあった 井戸と考えられます。 安永4年(1775)の「御城下絵図」の天守台には「福井」 と記された井戸が描かれています。 この頃には一般に「福の井」と呼ばれ、福井城の 特別な井戸となっていたことがうかがえます。

福井藩の正史である「越前世譜」に「北庄を福井と御改候事(天守之傍ニ福井と云名井有、其名ニ依而被改之)」とあるように、名井「福の井」が福井の名の由来になったという説も生まれました。しかし実際は、寛永元年(1624)、福井藩第3代藩主松平忠昌が「北ノ庄」の名は敗北につながるとして「福居」に改名し、それが1700年頃に「福井」となったと考えられています。 昭和23年(1948)の福井地震では、本丸の石垣がいたる所で崩れました。

「福の井」は崩壊することはありませんでしたが、井戸の形が大きく歪んだことから、震災後に井戸枠が大きく作り変えられました。
※現地看板より

控天守台跡


この控天守台跡の石垣には福井震災(1948年6月)等による崩壊の跡が残っています。厳しい自然の力が感じられるとともに築城以来の悠遠なる時の流れに思いを馳せることができます。
※現地看板より

天守礎石


控天守台跡


刻印


御廊下橋御門(山里口御門)


御廊下橋


関ヶ原の戦いの後、越前に封じられた福井藩初代藩主結城秀康によって築かれた福井城は、本丸を中心に、堀と郭が幾重にも巡らされる典型的な環郭式平城で、徳川家康の次男の居城に相応しい壮大な城郭でした。
 

本丸内には、政庁と藩主の居住部分を合わせた床面積一千坪を超える御殿がありましたが、歴代藩主の内、昌親(後、吉品)・重富・治好・慶永(春嶽)・茂昭の5人は、現在の中央公園にあった西三ノ丸御座所に居住していたとされます。(松平春嶽著「真雪草紙」) 藩主が政庁であった本丸と西三ノ丸御座所とを往復するための専用の橋が、御廊下橋でした。明治初期に撮影された写真(福井市立郷土歴史博物館蔵)によると、この橋は屋根付きの珍しい形態でした。
※現地看板より

本丸堀


二の丸


2024/9最終訪問


城郭周辺地図

福井県福井市大手

付近の有料駐車場


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