コンテンツへスキップ

日向国 飫肥城 [OBI-CASTLE]

概要

飫肥城は、日向南部の要衝・飫肥に築かれた群郭式の平山城。南北朝期に土持氏が築いたと伝わり、戦国期には伊東氏と島津氏の争奪戦が100年以上続いた。天正16(1588)、豊臣政権下で伊東祐兵が再入部して以降、明治初頭まで伊東家が5万1千石の飫肥藩を治めた。近世初期に度重なる大地震を受け、貞享3(1686)から元禄6(1693)の大改修で石垣・枡形・本丸移転等が完成。明治4(1871)に廃城となり建物は失われたが、昭和後期に大手門(1978)、御殿「松尾の丸」(1979)が復元され、城下は1977年に九州初の重伝建選定を受けた。苔むす旧本丸の杉林や堀・石垣・空堀などの遺構が今に往時を伝える。

城郭詳細データ

項目内容
ヨミカナオビジョウ
別名なし
所在地宮崎県日南市飫肥十丁目
100名城スタンプ第96 飫肥城歴史資料館
城郭構造群郭式平山城
天守構造なしなし
築城者伊東祐実
主な城主島津氏、新納氏、島津豊洲氏、伊東氏
築城年南北朝時代
廃城年1871
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
再建建造物松尾の丸御殿、大手門、北門
指定文化財市指定
遺構石垣、土塁、空堀、曲輪
現状史跡飫肥城址
駐車場飫肥城駐車(無料)
最寄り駅JR 飫肥駅


城犬のおいど 攻城記録


四半的場


おび天茶屋


店内では名物のおび天の実演コーナーを設けて揚げたてのおび天が召し上がられます。尚御食事は「おび天定食」「おにぎり」もあります。
※現地看板より

大手口


豫章館


空堀


日南市飫肥伝統的建造物群保存地区


飫肥は江戸時代には飫肥藩5万1千石の城下町として栄え、明治時代から昭和30年代にかけては南那珂郡の政治・経済の中心地として栄えた。城下の形成は、天正15年(1587)に飫肥藩主伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられる。

城下は、東西約850メートル、南北約900メートルの範囲で飫肥城の南を流れる酒谷川に三方を囲まれており、南北3街路、東西7街路で方形に区画されている。飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣の屋敷地となっている。各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生垣に囲まれ、格式に応じた門を設けている。屋敷地の広さは、上級家臣の2000坪から下級家臣の260坪程度のものまでさまざまである。

昭和52年(1977)、地方における小規模な城下町の典型的なものとして、九州で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。保存地区の範囲は、横馬場、後町通り、前鶴通りを中心に19.8ヘクタールである。
※現地説明板より

大手門


飫肥城大手門は明治時代初めに取り壊されたが、昭和53年(1978)に飫肥城復元事業の第二期工事として歴史資料館とともに復元建設された。復元に際しては、当時の城郭研究の第一人者であった故藤岡通夫博士に設計、監修を依頼し国内に現存する大手門を参考に在来工法で行った。

復元された大手門は木造渡櫓二階建てで、高さ12.3メートルを計る。建築材は飫肥営林署の三ッ岩学術参考保護林から樹齢100年の飫肥杉4本の提供を受けた。なお、復元工事中に、礎石に刻まれた正徳3年(1713)銘の碑文が発見され、大手門の内側に保存されている。飫肥城は、重要伝統的建造物群保存地区内であるとともに、日南市指定文化財である。
※現地説明板より

正徳3年1713年の碑文


大手門の枡形


飫肥城は、中世には島津氏と伊東氏の抗争の舞台として、近世には飫肥藩伊東家の居城として、現在の宮崎県を代表する城であった。酒谷川に囲まれた北側の一段高いシラス台地を

犬馬場


隅櫓跡


鐘楼


飫肥城の鐘はその昔享保18年旧藩主伊東祐永公代より二百余年に亘り軍用又は民間時報の使命を果しその情緒は住民に深く馴染まれてきた然るに昭和18年6月大東亜戦争のため供出に遭い爾来昭和36年飫肥区長会において復活期成会を結成し市民の協賛を得て昭和40年7月之を復活せり
※現地看板より

大手門西側の土塁


この土塁は、城の正面玄関である大手門の西側を防御するため、空堀の土を盛り上げて築かれました。戦国時代から江戸時代の様子が分る貴重な遺構です。
※現地看板より

しあわせ杉


4つの角にある4本の杉
対角線の中心に立つと幸せパワーがもらえます。
※現地看板より

歴史資料館


スタンプ設置場所


日本100名城スタンプ設置場所
御城印販売

中の丸(新本丸)


※生徒さんが居る時は撮影を控えましょう。

松尾の丸


飫肥城復元事業により、昭和54年(1979)に、江戸時代初期の書院造りの御殿として、在来工法を使用して建設された。建物は延床面積約800平方メートルで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など20室以上の部屋がある。

涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽第で使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元している。建物の設計、監修は豊後岡城や京都二条城を参考に故藤岡通夫博士が行った。
※現地看板より

松尾の丸御殿


旧本丸虎口


旧本丸石垣


旧本丸


飫肥城は東西約700メートル、南北約500メートルの城域に大小13の曲輪と犬馬場などからなる広大な城である。各曲輪はシラス台地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭において特徴的な形態である。戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、天正15年(1587)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東氏の居城となった。

城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。このうち、元禄6年(1693)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは旧本丸が藩主の御殿であった。旧本丸は寛文元年(1686)の三度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。
※現地説明板より

旧本丸北門


北の城


2026/2最終訪問


城郭周辺地図

宮崎県日南市飫肥十丁目

飫肥城駐車(無料)


[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 宮崎県の城郭一覧 ]

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP