概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | あり(東門復元門枠) |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
水城(水城大堤)は、福岡県太宰府市国分二丁目から大野城市にまたがる御笠川沿いの平野峡窄部を塞ぐ形で築かれた飛鳥時代の巨大な国防土塁遺構である。国の特別史跡に指定され、続日本100名城にも選定されている。全長約1.2キロメートル、基底部の幅約80メートル、高さ約9〜10メートルに及ぶ長大な版築土塁で、北側(博多湾側)には幅約60メートルの外濠(水堀)を配していた。日本書紀に「大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ」と記され、発掘調査では軟弱地盤を補強する敷柴工法や、木樋を用いた通水木槽遺構、東西の城門跡などが確認されている。現在は歴史展示施設「水城館」や展望広場が整備され、古代の景観を今に伝えている。
歴史的役割
天智天皇3年(664年)、前年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたヤマト政権(中大兄皇子/天智天皇)が、大宰府の防衛および九州本土防衛の最前線拠点として築造した。博多湾から大宰府政庁へ至る平野部の大動脈(御笠川低地)を完全に封鎖し、西側の山間部には小水城群、後背の山頂には大野城を配して重層的な防衛ネットワークを構築した。大堤の上には官道が通る東門・西門が置かれ、軍事防壁であると同時に大宰府への出入を管理する関所(検問所)としての機能も果たした。平安時代には刀伊の入寇(1019年)に際して迎撃防衛線として再活用された記録が残る。古代日本の卓越した土木技術と対外防衛体制を物語る第一級の国史跡である。
見どころ
全長約1.2km・高さ約10mを誇る長大な版築古代土塁の雄姿、外濠(博多湾側)および木樋(導水木槽)の発掘復元遺構、東門跡に整備された門遺構表示、ガイダンス施設「水城館」の展示および展望台からの大堤全景、春・秋を彩る土塁法面の桜並木やコスモス畑
ご当地グルメ
城犬のおいど 攻城記録
東門跡
水城の東西端には門が設けられました。ここはその東門跡で、都から大宰府の玄関口でした。大宰府に赴任する官人たちは、水城の門で出迎えを受け、また送り出されました。実際、寛弘2(1005)年に大宰大弐として赴任した藤原高遠は、水城で大宰府の印と鍵を受け取り、また、天平2(730)年に太宰師大伴旅人が帰京した時は、水城で役人たちに見送られています。東門は、藤原高遠の和歌に「岩垣の水城の関」と詠われていることから、門の両側には石垣が築かれていたと考えられます。

その後、寿永2(1183)年までは、門が存在したようですが(「平家物語」巻第8)、元寇のことを記した「八幡愚童訓」には、礎石があるのみと記され、13世紀後半には、門は無くなっていたことがわかります。その後もここは交通の要衝であったことから、大きく改変され、江戸時代には街道脇に礎石が1個残るのみとなっていました。平成26(2014)年に一部発掘調査を行いましたが、攪乱されており、門の遺構は残っていませんでした。しかし、門外の脇に造られたと推測されるL字形に曲がる溝が確認されたことや土塁との位置関係などから、門は礎石があるこの付近にあったと推測されます。
※現地説明板より


水城大堤之碑
この碑は、大正4(1915)年、大正天皇即位の記念事業として、水城青年会が建てたものです。碑文は、水城村在住の郷土史家・武谷水城が書き、碑の背面には、水城跡の由来と水城村出身の技師・竹森善太郎が行った水城跡の実測結果が刻まれています。台石は宝満山から、棹石は博多から水城青年会が自ら運搬したものです。
※現地案内板より

官道
大宰府の出入口となった水城の西門・東門を通過する直線道である。西門ルートは筑紫館(鴻臚館)と大宰府を結ぶ道で、外国使節はこのルートで大宰府へ入った。東門ルートは博多に繋がっており都からの官人赴任ルートとみられる。西門・東門ルートともに現在は市道として踏襲されている。
※現地案内板より

石柱

門柱の穴と門扉の穴
基礎上面にある2つの円形の穴は、門柱を据える穴と門扉の軸受けです。方形の穴は扉と門柱との隙間をふさぐ方立を据えます。発掘調査で、礎石は江戸時代末頃の層の上にのっていることがわかり、官道の位置に対し、礎石の向きも異なっていたことなどから、古代の位置を保っていないことがわかりました。そこで、平成28年の整備では、礎石の向きだけ本来の向きに据え直されました。

礎石
発掘調査や上水道工事などで発見された礎石が集められています。

水城館



スタンプ設置場所
続日本100名城スタンプ設置場所






水城瓦窯跡
この地下には、瓦を焼いた窯跡が保存されています。この瓦窯は、昭和61(1986)年に水城跡の一部が崩落したことで発見され、その後平成11(1999)年の発掘調査で、瓦窯が2基あることがわかりました。九州で見つかる窯は、丘陵斜面を利用した登窯が多いのですが、ここで見つかった瓦窯は、床面を平坦にした平窯が多いのですが、ここで見つかった瓦窯は、床面を平坦にした平窯という珍しい構造でした。

この窯の操業時期は、焼成部から出土した須恵器から、8世紀中頃と推測されています。その頃の水城について、「続日本紀」には天平神護元(765)年に采女朝巨浄庭という役人を修理水城専知官に任命した記述があります。この頃、唐(中国)の混乱や新羅(朝鮮半島)との関係悪化に伴い、怡土浄(糸島市)を築城するなど、北部九州の防備が強化されており、水城も修理されたことがわかります。その時、ここで東門などの建物の瓦を焼いたと考えられます。
※現地説明板より

水城西門跡と官道
水城には東西それぞれに門があり、ここには西門がありました。水城西門と官道は大宰府と外国をつなぐ重要な施設でした。西門には、外国からの使節団を留めた鴻臚館から大宰府につながる官道(公的な直線道路)が通っており、使節団はこの官道を通って大宰府に出入りしました。しかしながら、外国使節の訪問が途絶えた以後、官道としての必要性が低下したためか、次第に官道の側溝が埋まるなど、公道としては次第に荒れていきました。

西門跡の発掘調査成果から、西門が廃絶した後も、少なくとも平安時代(12世紀頃)までは、水城の土塁を通り抜けるための道として使い続けられました。その名残が解説板の左手に見える細い道になります。
※現地説明板より

