概要
名島城は、福岡県福岡市東区名島に所在した戦国時代の水城(みずじろ)である。博多湾(はかたわん)に突き出した標高50メートルの丘陵に築かれ、東側を除く三方を海に囲まれた天然の要害であった。城域は東西840メートル・南北280〜400メートルの規模を誇り、北に本丸、南に二の丸・三の丸を配置した構成をもつ。安芸国三原城(あきのくにみはらじょう)と同様、水軍の根拠地としての性格が強く、大船を城に直接接岸できる構造をもつ海城であった。築城当初は立花山城(たちばなやまじょう)の出城として機能したが、豊臣秀吉による九州平定後、小早川隆景(こばやかわたかかげ)によって桃山文化の粋を集めた絢爛豪華な居城へと大改修された。天守・石垣を擁する重厚な城郭として整備され、文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)に際しては豊臣秀吉が淀殿を伴って宿泊するなど、九州支配の中枢として機能した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、黒田長政(くろだながまさ)が入城したが、城下町整備に不向きな地形を理由に福岡城を新築することとなり、名島城は廃城となった。建物・石垣・門などは「名島ひけ」と称して福岡城建築に転用され、城跡の大半は現在住宅地となっている。現在は名島城址公園・名島神社(なじまじんじゃ)として整備され、移築された門が福岡城址・崇福寺(そうふくじ)・宗生寺(そうしょうじ)に現存するなど、複数の場所でその面影をたどることができる。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | ナジマジョウ |
| 別名 | 名島水城 |
| 所在地 | 福岡県福岡市東区名島一丁目 |
| 100名城スタンプ | - |
| 城郭構造 | 連郭式平山城(海城) |
| 天守構造 | 不詳不詳 |
| 築城者 | 立花鑑載 |
| 主な城主 | 小早川氏、小早川氏、黒田氏 |
| 築城年 | 天文年間 |
| 廃城年 | 1607 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | 【移築】福岡城(名島門)、崇福寺山門(唐門)、宗生寺山門(搦手門) |
| 再建建造物 | 不明 |
| 指定文化財 | 未指定 |
| 遺構 | 石垣、空堀 |
| 現状 | 史跡名島城址、名島城址公園 |
| 駐車場 | 付近のコインパーキング(有料) |
| 最寄り駅 | 西鉄 名島駅 |
城犬のおいど 攻城記録
名島神社と名島城跡
天正16年(1588年)、九州を平定した豊臣秀吉は、この地に城を築くよう小早川隆景に命じ、名島城を九州守護の拠点としました。慶長5年(1600年)には福岡藩初代藩主黒田長政が入城しましたが、福岡城の築城に伴い廃城となりました。

また、名島神社は当初、神宮ヶ峯山頂にありましたが、築城の際に現在の場所へ移されました。江戸時代までは名島弁財天社と呼ばれていましたが、明治維新の神仏分離令により、現在の名島神社戸なりました。祭神は、宗像三柱姫大神です。
※現地説明板より

名嶋古城図




事無紫のいわれ
名島神社は古代よりこの山の頂上、神宮ヶ峯に鎮座ありしを、天正6年豊臣秀吉、神社を浜辺に移し、その神地に御座所指定の名島城、天守を小早川隆景に築かせ、九州統括の城としたもので、その後、黒田長政入城するも、名島城を解体し福岡城を移築し廃城となる。

黒田四代、綱政現神社を建立され更に黒田斎清による修築ありて現在に至る。中世、慈覚大師、唐より帰還弁財天を合 し通称を名島弁才天とし福徳円満、智慧、学門、商売殊には伎芸の神として信仰を集め(つちのとみ祭)に「事無紫」を領ち神厳のみしるしとします。或は太古の「事無の神祭」の奉幣に困ると。
※現地案内板より


名島城址公園入口


本丸
名島城は、豊臣秀吉による九州平定後、小早川隆景(1533‐1597)が天正16年(1588)2月25日から築城を開始した城郭です。隆景は、中国地方の大半を勢力下においた戦国大名、毛利元就の三男で、「三本の矢」のエピソードで有名な毛利三兄弟の1人です。

城には多々良川河口の丘陵東側から三の丸、二の丸、水堀を挟み、長天主台、西端に本丸の各曲輪を連続して配置し、南側には河口から続いて東西に長い水堀が設けられました。城の規模は東西約750m、南北250~400mで、陸続きとなる南東側に城下町が置かれました。築城後、秀吉による文禄・慶長の役(1592‐1598)が始まり隆景は多くの家臣を率いて、天正20年(1592)に朝鮮へ出兵(唐入り)しました。

その間、名島城は、唐入りの軍事的拠点である名護屋城への軍事・生活物資や人材などの補給基地としての役割も担いました。帰国した隆景の養子として迎えられた小早川秀秋(1582‐1602)が、文禄4年(1595)に新たな城主となり、隆景は備後国三原に隠居しました。秀秋が慶長の役に出兵した慶長2年(1597)6月に隆景は、三原でその生涯を閉じました。

慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いの勝利に貢献したことから、秀秋は備前国岡山に移り、新たに豊前国中津から福岡城の築城を開始した際、名島城から建造物や石垣を解体して運んだといわれています。これは、「名島引け」といわれ、黒田家菩提寺である崇福寺(博多区)の唐門や福岡城に移築された名島門、名島城の搦手門と言われている宗生寺(宗像寺)の山門にもその言い伝えが残ります。
※現地説明板より


城址碑と記念碑
隆景公は天文2年(1533)毛利元就の第三子として生まれ小早川家を継いだ。天正15年(1587)筑前、築後の両国と肥前、二郡を与えられてこの地に居城を築いた。この名島城は三方を海に囲まれた要害堅固な城として知られたが黒田長政の福岡城へ引城にともない廃城となった。
※現地石碑より





下野国(栃木県)
国史蹟 足利学校
下断梅
足利学校の誓願成就 学問探究の古木である 慶長元年(1596)小早川隆景公は足利の学校から白鴎老師を招き領内へ学舎を建て若き士庶に学問を奨励した。 これは我が国教育史の鎬矢であった

この梅は熟しても変色することなく青を保つ目出度い木で緑りをもって隆景公入府四百年を記念して移植する
※現地石碑より


隅櫓跡
北西隅の突き出した曲輪上に築いた隅櫓跡、列石で囲んだ内側に礎石を置き、小石を敷き詰めて櫓台を築く。規模は南辺4.9m以上、東辺4.2m以上である。列石上に壁が建っていたと考えられ、外側から多量の瓦が出土した。突出した曲輪上に築いた瓦葺きの隅櫓は近世城郭の技法を取り入れたものである。
※現地看板より

大手口

大手石垣遺構


福岡城に移築された名島門
関ヶ原の合戦の後の慶長5年(1600)、筑前を領した黒田長政が入城しました。長政は三方を海、一方を山に囲まれた当地を城地としては狭隘であるとして、翌年から福岡城の築城にかかり、名島城の石垣など総てを取り崩し福崎の地に運漕して使ったと言われています。
※名島城本丸案内板より

俎板瀬
名島黒崎海岸には、いくつかの神功皇后伝説があります。この右側にある「帆柱石」、この左側にある「縁の石」、そして、ここ「俎板瀬」は、神功皇后が三韓にご出立の折、供物を供えたところ。又、ご帰還の折、凱旋の祝宴をしたところだといわれています。
※現地案内板より


名島帆柱石
ここから10m程奥に入った場所にある9個の円柱状石は、古第三紀漸新世前期(今から約3500万年前)に堆積した志免層群名島層の砂岩、礫岩層中に含まれる珪化木とよばれる樹木の化石です。

香椎宮の社伝には、3世紀ごろ、神功皇后が三韓出兵の際に使用した船の帆柱が化石になったものという言い伝えがあり、浪打ち際の岩の上に並ぶその姿は、まさに帆柱を連想させます。また、この石は国の天然記念物に指定されています。
※現地案内板より

檣石
日本列島の形がつくられたといわれる第三紀層時代、今の多々良川沿いは久山町・篠栗町、同じく須恵川沿いは宇美・志免・須恵、御笠川沿いは遠く水城・大宰府、そして那珂川沿いは那珂川町あたりに海岸線がありました。

檣石(国指定天然記念物)はこのような先史の太古の樹木が化石化した珪化木です。名島から松崎、そして立花山山系までの地域は、直径1m以上もある巨木に覆われていたと想像されます。
※名島城本丸案内看板より

2026/2 最終訪問
城郭周辺地図
付近のコインパーキング(有料)
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