概要
佐土原城は、日向伊東氏の一族・田島休助が14世紀半ばに「田島城」として築いたのに始まり、15世紀に伊東本家の拠点化で「佐土原城」と称された。戦国期、伊東義祐の下で城域を拡張し、日向支配の中心城郭の一つに。1570年代に伊東氏が島津氏に敗れて退去後は島津家久・豊久らが拠した。関ヶ原後は一時天領を経て1603年に島津以久が3万石で入封、佐土原藩の政庁となる。1625年に二代・島津忠興が山上の城を廃し、麓の二の丸に政庁を移転。明治3年に広瀬へ転城して破却。1993年に二の丸御殿の一部(鶴松館)を復元、2004年に国史跡指定、2017年に続日本100名城に選定された。山上では1996年の発掘で天守台と金箔鯱瓦が出土し、南九州最南端級の天守台が学術的に確認されている。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | サドワラジョウ |
| 別名 | 田島城、田島之城、鶴松城、松鶴城 |
| 所在地 | 宮崎県宮崎市佐土原町上田島 |
| 100名城スタンプ | 第196 宮崎市佐土原歴史資料館 鶴松館 |
| 城郭構造 | 連郭式山城 |
| 天守構造 | 独立式3重3階 |
| 築城者 | 田島氏 |
| 主な城主 | 伊東氏、島津氏 |
| 築城年 | 南北朝時代 |
| 廃城年 | 1870 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 再建建造物 | 二の丸御殿の一部(鶴松館)、表門 |
| 指定文化財 | 国指定 |
| 遺構 | 石垣、土塁、空堀、曲輪 |
| 現状 | 史跡佐土原城址 |
| 駐車場 | 佐土原歴史資料館 鶴松館 駐車場(無料) |
| 最寄り駅 | JR 佐土原駅 |
城犬のおいど 攻城記録
二の丸


山城の全体説明(土佐原城)

スタンプ設置場所
続日本100名城スタンプはこちら。
なお、御殿内の撮影は禁止になっています。

二の丸御殿(鶴松館)
山下のこの御殿は寛永二年(1625年)後佐土原島津藩主二代島津忠興が山上の城を、この地に移したもので建物の絵図は残っていませんが発掘調査した遺構の柱穴や礎石に基づいて寛永期の武家屋敷の木割りで復元したものです。

「佐土原藩職制遺考」に記される建物名によると正面の上御門を入ると「大広間」があり、その一部屋には「鑓の間」が設けられ藩の重用品が納められていました。次に、「御書院」になる建物が存在しました。御書院は藩主の御座所で、金の間と御敷舞台その他からなっていました。その他、「政治之間」「記録所之間」「鶴之間」「鹿之間」「大奥之御座所」などの部屋が設けられていたようです。

発掘遺構は西側、北側に柱穴が続きますがこれらの部屋があっただろうと推測されます。また、御書院の南側には二間半×五間半の建物跡があり周囲の庭園の状況から「数寄屋」風の建物と思われます。
※現地説明板より

大手道
両側にそびえたガケの下を延々とのぼる大手道(城の最も主要な道)。尾根を縦に断ち割ってつくられた非常に珍しい構造。

登城路






堀切跡
北東にのびる尾根上を攻めてきた敵をくい止めるためのもの。

松尾丸入口
台風の影響で立入禁止

南の丸入口
台風の影響で立入禁止




虎口
虎口(小口)とは城や曲輪の出入口のことです。敵が中に入りにくい構造にして城を守りやすい工夫を凝らしています。本丸の入口にある枡形虎口はL字状に折れ曲がっており、進入してきた敵が直進できないように工夫されています。

枡形虎口は名前のとおり、出入口に土塁や堀などで区切った四角い空間を設けて敵を誘い込み、身動きがとれないように封じ込め、そこに三方から集中攻撃をかけて敵を仕留める構造をしています。
※現地看板より

本丸
城の中で一番中心になる曲輪を本丸といいます。ここは、この山城の中で、一番標高が高く防御上も有利な所なので、本丸となったのです。かなり広い曲輪ですが、掘り下げた道などで分割されて使用されていたようです。建物もあったはずですが、殿様は普段はここにいず、麓の居館に住んでいたと思われます。

しかし、一旦戦争になれば、ここが一番中心の曲輪になり、殿様が入ったことでしょう。江戸時代の初めごろまでは、この本丸も使われていたようですが、寛永二年(1625年)にこの本丸を含めて山城は廃止されました。
※現地説明版より


天守台跡
古い文献や絵図をもとに、以前から佐土原城には天守があったのではないかと言われていました。平成8年(1996年)から始まった本丸跡の発掘調査で、古絵図の位置に天守台跡が確認されました。天守が二層であったか、三層であったかなど、天守の構造についてはこれからの調査を待たなければなりません。
※現地説明板より




本丸の尾根続き
この佐土原城の山城の中心が本丸ですが、この西の端が本丸から外へ続く唯一の尾根になります。本来なら、敵が攻め寄せて来る方向になるのですが、尾根との落差は15m以上あり、しかも両側から谷が入り込み天然の空堀となって、山城部分を独立させています。

そのため、この方面からの敵の攻撃は全く無理だと考えられます。そこでこの方向は城として安心できるので、ここを拠り所に、この城の縄張り(城の設計プラン)が考えられたわけです。
※現地説明板より


2026/2最終訪問
城郭周辺地図
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