城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | アコウジョウ |
| 別称 | 加里屋城、大鷹城 |
| スタンプ設置場所 | |
| 曲輪配置 | 変形輪郭式 |
| 城郭種類 | 海城(平城) |
| 築城者 | 岡光広 |
| 築城年 | 1466年 |
| 廃城年 | 1873年 |
| 主な城主 | 池田氏、浅野氏、森氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 2.6 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | 大石邸長屋門、坂田邸長屋門 |
| 復元建造物 | 大手隅櫓、本丸門、本丸一の門、厩口門 大手一の門、大石頼母助邸薬医門 |
| 遺構 | 石垣、水堀 |
| 現状 | 史跡赤穂城跡 |
| 駐車場 | 赤穂城跡公園 東駐車場 赤穂城跡公園 西駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 赤穂駅 |

概要・現地案内板
赤穂城は、正保2年(1645年)に浅野内匠頭長矩の祖父長直が、常陸国笠間から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、実に13年に亘る歳月を費し、寛文元年(1661年)に完成したものである。
城郭の縄張りは甲州流軍学によるもので、本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になって、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城である。
城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、石塁の延長は約2845メートル、面積は146922平方メートルに及んでいる。
塁石、防壁、諸門、本丸御殿がととのえられ、居城としての偉容が示されたが、天守台のみ築かれて天守は構築されなかった。
築城当初から城内に大石邸をはじめ藩重臣の屋敷があったが、浅野家断絶後は永井家、次いで森家の居城となり、明治廃藩後、城塞は惜しくも破壊され屋敷は民有地に払い下げられたが、現在では本丸門内は大名庭園がよみがえっている。
赤穂義士の自刃250年祭を記念に、昭和30年春、大手門、大手隅櫓と城壁の一部が復旧され、同46年3月赤穂城跡は国の史跡に指定された。
以後、本丸の整備等が進められている。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
無料駐車場

大手門

高麗門


大手門桝形石垣
赤穂城の表虎口である大手門は、石垣を方形に積上げた枡形と高麗門、櫓門の二重の城門を備えた最も厳重な枡形門であった。枡形は打ち出す兵を待機させたり、敵兵を閉じ込めて攻撃するためのもので、その規模は長辺10間(約19.8m)、短辺6間(約11.8m)、面積234㎡である。現在ある高麗門は、隅櫓、土塀とともに昭和30年(1955)に再建されたものである。

枡形石垣は、明治19年(1886)にその形状を大きく改変され、その後周辺は赤穂大石神社の境内となっていたが、文化庁の国庫補助事業によって公有化が図られ、平成15年(2003)に石垣の修復及び周辺整備が完成した。発掘調査によって、枡形石垣、櫓門跡、番所跡、上水道施設、排水枡、大石内蔵助屋敷土塀石垣など多くの遺構が見つかっている。櫓門は、幅4間半(約8.9m)、奥行2間(約4m)であったことが明らかとなり、新たに板石を埋め込んで礎石の位置を示している。

また、門の前後では川原石を並べた霰敷きの雨落ち施設も見つかっている。この休憩所は、発掘調査で検出された番所跡の位置に、ほぼ同規模の番所を模して建てられたものである。当時、番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門の警護にあたっていた。
※現地看板より

番所跡休憩所


大手隅櫓
赤穂城の玄関口となる大手門の脇に位置する二重櫓。明治時代に取り壊されたが、昭和30(1955)年に再建された。脇にある大手門をくぐると、赤穂城で最も厳重な枡形がある。
※現地看板より

北横矢桝形跡






塩屋門跡
赤穂城は、浅野長直が慶安元年(1648)から13年をかけて寛文元年(1661)に完成させた海岸平城である。ここ塩屋門は赤穂城の搦手の門として配され、高麗門1門からなる。その規模は間口約4m、建築面積約16.5㎡であったという。門を入ると内部は内枡形をなし、門正面には高さ4.5mの枡形石垣、左手は雁木となり、城内へは右手方向へ進路をとる。

枡形内には番所と太鼓櫓があり、この櫓から塩屋門の周辺に屋敷を構える藩士への合図を発した。
※現地説明板より

大石神社


大石内蔵助良雄 銅像

大石内蔵助邸長屋門
この門は、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた大石屋敷の正面門長屋である。門口約26.8メートル奥行約4.8メートルの建物で、屋根瓦には双ッ巴の大石家の定紋がついており、元禄の昔に思いを馳せ、内蔵助の偉業を偲ぶ唯一の建物となっている。

かっては、内蔵助と主税の父子が朝夕出入りし、又元禄14年3月主君の刃傷による江戸の悲報を伝える早打ちがたたいたのもこの門である。安政3年(1856年)に大修理が行われ、大正12年国の史跡に指定された。更に昭和37年に屋根の大修理を行ったが老朽甚だしく、昭和52年11月から国、県及び市の負担により、総工費3138万円をかけて全面解体修理を行い、昭和53年10月末に復元完了した。
※現地看板より

二の丸跡

二の丸門跡
赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が、常陸国笠間から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費し、寛文元年(1661)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。ここ二の丸門跡は二の丸の入口として、虎口はやや南よりの西方白虎に開かれた切妻式櫓門が構えられていた。

二の丸門虎口の縄張りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行が、承応2年(1653)に変更したと言われる。文久2年(1862)には、この付近で赤穂藩国家老森主税が、藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。この事件は、文久事件と呼ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討ち「高野の復讐<和歌山県高野町>」の発端となった。また、二の丸門をはさんだ、東方の東北隅櫓台から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁は、明治25年(1892)千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、築石として使用取り除かれた。
※現地説明板より

大石頼母助屋敷門
大石頼母助良重は、大石内蔵助良雄の大叔父にあたる人物で、家老職にあった。藩主浅野長直に重用され、二之丸に屋敷を構え、その妻は長直の娘を迎えた。山鹿素行が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で8年余りを過ごしたという。

平成10~13年にかけて実施された二之丸庭園の発掘調査によって、頼母助屋敷の門跡のほか土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが見つかった。門は、発掘調査によって見つかった遺構に基づきその規模及び構造が検証され、薬医門形式の屋敷門として平成21年3月に整備された。
※現地看板より

本丸門(復元)
本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治10年代後半の取壊しまでの約230年間存続していました。現在の本丸門は、平成4年文化の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて総事業費約6.7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。

この平成の復元は、明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩による桝形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時の姿によみがえらせています。
※現地説明板より



本丸
赤穂城は、藩主御殿のある本丸と、その周囲を取り囲む二之丸、そして北側に曲輪が取り付く三之丸の三つの曲輪によって構成されています。二之丸には二之丸庭園をはじめ馬場や米蔵などがあり、三之丸には城の守りを兼ねて家臣が住んでいました。藩主の住んでいた本丸には、本丸御殿南側に大池泉が広がり、御殿の内部から観賞することができました。

このほか御殿内部の坪庭や本丸北西部に「くつろぎ」と呼ばれた池泉もあり、藩主の生活を潤しました。なおこれらの池泉のみならず生活のための水は、すべて約7㎞上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われました。
※現地看板より

赤穂御城御殿絵図
これは、浅野家断絶後赤穂藩主になった永井家の所蔵文書の絵図で、美濃紙全体に基準格子を箆書きし、墨で輪郭線を入れている。御殿の部屋を柱位置を入れた色違いの紙に描き、切り貼りした図面である。
※現地説明板より

本丸庭園
赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)より13年に亘る歳月を費し、寛文元年(1661年)に完成した甲州流軍学の海岸平城である。本丸は中央に藩主の屋敷(本丸御殿)、南東部には天守台、南には庭園などがあり、本丸門、刎橋門、厩口門の3門をもつ。

天守台には天守閣は当初から築かれず、4箇所の櫓台のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、ほかは横矢桝形として配されていた。
※現地説明板より

天守台



天守台からの風景
赤穂城の築かれた寛文元年(1661)年は、江戸開府からすでに60年以上経過しており、このころの城郭は防備の拠点ではなく経済の拠点としての役割を担っていました。赤穂城に天守が築かれず天守台のみとなっているのも、こうしたことが理由の一つとされています。しかし、浅野長直が築いたこの天守台からは、大変素晴らしい眺望を得ることができます。

当時の赤穂は製塩業が活発化しはじめたところで、近隣地域から製塩技術者を移住させて、東浜塩田の開発を本格化させていました。広大な西浜塩田の開発は森時代を待たなければなりませんでしたが、眼前に広がる穏やかな瀬戸内海とともに、東浜塩田が着々と干拓されていくさまを、藩主は眺めることができたのでしょう。
※現地看板より


厩口門






刎橋跡

米蔵
米蔵は、米など穀物の集積所または備蓄倉庫として、城内に建てられました。古絵図や古文書などによると、かつてこの場所に二棟ないしは三棟の米蔵が建っていたと記されています。赤穂浅野家断絶時の赤穂城請取の記録によると、二の丸内米蔵には1204石4斗(4斗俵で3036俵)の残米があったと記されており、いかに大きな建物であったかがわかります。

現在の姿は、発掘調査で出土した一棟を盛土によって保護した上、外観を復元的に休憩所として整備したものです。内部の壁面には、米俵の荷ずれ防止のため、「荷ずり木」をはめ込むなど、往時の蔵内部が理解できるつくりとなっています。
※現地説明板より

水手門跡
瀬戸内海には、三原城や高松城など、海や川を巧みに取り入れて防御や水運を利用した平城の海城が多数みられます。かつて赤穂城は、古絵図に見られるように、東に熊見川(現在の千種川)、南はヨシ原が広がる干潟に面しており、満潮時には海水が石垣まで迫っていました。

水手門には、物資を運んできた船を泊めるための「船着場の雁木」や船を波から守る「突堤(波止場)」など、海城の特徴を伝える貴重な施設が、発掘調査などに基づき復元されています。ここから搬入された米などの物資は、二の丸内の蔵に蓄えられ、藩の財政をささえたのです。
※現地説明板より

西仕切門
西仕切門は二之丸を南北に二分する城壁で、低い石垣の上に土塀が巡らされていた。門は西仕切が屈折した部分に設けられており、発掘調査の結果、控柱付きの棟門であったことが判明した。この西仕切門は、文献資料や絵図などによれば「透シ門」などとも呼ばれていることから、門扉の一部に横板を張らない構造であったことがわかっている。

こうした城門の構造は、戦の際に扉の縦格子から門前の敵兵の様子をうかがい、攻撃を加えるための工夫と言われ、松山城や熊本城をはじめ近世城郭にしばしば用いられていた。平成22年(2009)3月に復元された。
※現地看板より

二の丸庭園
二之丸の約4分の1を占める大規模な廻遊式庭園。発掘調査によってその全貌が明らかとなり、平成14(2002)年には本丸庭園とともに「旧赤穂城庭園」として国名勝に指定された。現在も整備が続けられているが、一部の公開を行っている。
※現地看板より



山鹿素行謫居地跡
素行は朱子学批判の咎で幕府により赤穂に配流され、寛文6(1666)年から延宝3(1675)年の間、大石頼母助屋敷の一角で謫居し、「中朝事実」等を著したほか、藩士らに武士の道を説いた。
※現地標柱より

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