概要
門司城(もじじょう)は、福岡県北九州市門司区大字門司の古城山(こじょうさん)山頂に築かれた中世山城である。標高約175メートルの山上から関門海峡を一望できる位置にあり、鎮西の玄関口を押さえる軍事拠点として、鎌倉期から戦国期にかけて大内氏・大友氏・毛利氏らの争奪戦の舞台となった。現在、城跡は和布刈公園(めかりこうえん)の一部として整備され、山頂には門司城跡の石碑とわずかに残る石垣、そして明治期要塞の砲台跡が往時の面影を伝えている。関門橋と海峡を見下ろす眺望は圧巻で、城跡そのものが「海峡の歴史を俯瞰する展望台」となっている。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | モジジョウ |
| 別名 | 門司関山城、門司ヶ関山城、亀城 |
| 所在地 | 福岡県北九州市門司区大字門司 |
| 100名城スタンプ | - |
| 城郭構造 | 階郭式山城 |
| 天守構造 | なしなし |
| 築城者 | 紀井通資 |
| 主な城主 | 門司氏、大内氏、大友氏、毛利氏、細川氏 |
| 築城年 | 1185 |
| 廃城年 | 1617 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 再建建造物 | なし |
| 指定文化財 | 未指定 |
| 遺構 | 曲輪、石垣 |
| 現状 | 和布刈公園 |
| 駐車場 | 和布刈 第1展望台 駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 門司港駅 |

城犬のおいど 攻城記録
和布刈公園第一展望台

門司城跡
義経・平家伝説ゆかりの地
徒歩10分


門司城(門司関山城・亀城)
門司城は、最初平知盛が源氏との合戦にそなえて、長門国目代紀井通資に築城させたといい伝えられている。寛元ニ(1244)年、下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任ぜられて下向。のち門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。

親房の子孫は地名により門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・全山の5支城を構えてそれぞれ一族が配置された。門司氏はその後およそ350年にわたって北九州の地に続いた。その間南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、当城には北朝武家方の吉志系門司左近将監親尚が拠り、一方南朝宮方の伊川系門司若狭守親頼は猿喰城に籠り、骨肉の争いもあった。

室町時代末になると、門司半島は豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後はかわって毛利氏が争奪するところとなり、当城はその渦中におかれた。ことに大友・毛利両氏による永禄の門司城合戦は壮絶をきわめ、ちなみに『後太平記』には、「昔、源平両家比処にて軍せしも、時こそ替れ是にはよも勝らし」とその戦況を記している。

その後の門司城は、城主も入れかわりながら続いたが、細川忠興の豊前入国後の元和元(1615)年、一国一城の令により、およそ四百年におよぶその歴史をとじた。
※現地石碑より

倉庫


主郭

城址碑

砲台跡

歌碑

関門海峡


石垣





古城砲台跡








壇之浦合戦壁画
壇之浦合戦の模様を美しい有田焼の陶板で再現した壁画で、義経、教経、二位の尼、安徳帝、建礼門院などが生きいきと描かれています。
※現地看板より

源平壇之浦合戦について
眼下に広がる関門海峡は、一日七百余隻が通貨する国際航路であるが、日本の歴史の中に華々しく登場し、やがて散っていった平家滅亡の哀史の地としても有名である。寿永二年(1183年)栄華を極めた平家も衰えを見せ、長年勢力を争った源氏の木曽義仲に追われ京都を逃れた。

平家は平清盛の外孫安徳天皇を擁して、百艘ばかりの船に乗り、平家ゆかりの地九州の宇佐八幡を頼ったが、平重盛の家人であった、緒方三郎惟義の裏切りにあい、やむなく筑前の大宰府天満宮に入った。しかし、ここも安住の地ではなく、遠賀川河口の山鹿城(芦屋町)に落ちた。城主山鹿秀遠と香月の庄(八幡西区)香月氏とは共に平家を助けたが、

山鹿城へも惟義の軍が押し寄せると聞き、安徳帝と平家一門は小舟に乗って夜もすがら響灘を東へ向かい、豊前の柳が浦(現在の門司区大里)に上陸した。平家は柳が浦に内裏(この古事により、今の大里と改められており、大里には安徳天皇の行在所となったと伝えられる柳の御所がある。)をつくろうとしたが、もはやその力もなく、また、長門(下関側)からの源氏の襲撃もあるので、瀬戸内海を東へ逃れた。

東へ進んだ平家は一時勢いをもりかえしたが、摂津の一の谷、四国の屋島で源義経の奇襲にあい敗退、再び北部九州へ向かい、これを追って西下した源氏と関門海峡で対峙した。寿永四年(元暦二年、1185年)三月二十四日の卯の刻(午前六時頃)、早鞆(はやとも)の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。四千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて入り交じった。

当初平家が優勢とみられたが、源氏の勝利を予言する種々の奇跡が現れて、四国、九州の平家方の寝返りと、船の漕ぎ手を先に倒すといった源義経の巧妙な戦法により、その日十六時ごろ平家の敗北は決定的となった。平清盛の妻で、安徳天皇の祖母二位尼は、もはやこれまでと、御座船から八歳の幼帝を抱いて「浪の下にも都のさぶろうぞ」と海中へ身を投じた。帝の母建礼門院もこれに続いて入水、平家の武将もつぎつぎと身を投げ、ある者は鎧を重ね、碇を背負い海に入った。

帝の母建礼門院もこれに続いて入水、平家の武将もつぎつぎと身を投げ、ある者は鎧を重ね、碇を背負い海に入った。「おごれる人は久しからず、唯春の夜の夢のごとし」五年間におよぶ源平両軍の戦いは史上まれに見る大規模な海戦でその幕を降ろした。
※現地屏風看板より

和布刈神社
毎年旧暦元日の早朝、3人の神職が烏帽子、狩衣、白足袋に草履姿で干潮の冷たい海に入ってワカメを刈る神事。刈り取ったワカメを神前に供え、航海の安全や豊漁を祈願することで知られている神社です 。また、神社前に細川忠興が寄進した灯籠があります。

和布刈砲台跡(門司砲台)
長州藩による要求を受け、江戸時代末期(幕末)に小倉藩によって築造され、関門海峡の防備のために設けられた砲台の一つである。

2026/3最終訪問
城郭周辺地図
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