概要
府内城は、大分県大分市中心部・大分城址公園一帯に築かれた梯郭式の平城である。慶長年間に海辺の低地を埋め立て、石垣と水堀をめぐらせて築かれた「水に浮かぶ城」として知られ、城下町とともに豊後の政治・経済の中心として発展した。現在は本丸・二之丸周辺が大分城址公園として整備され、石垣や堀、櫓などが往時の姿を今に伝えている。
城郭詳細データ
| ヨミカナ | フナイジョウ |
|---|---|
| 別名 | 大分城、荷揚城、白雉城 |
| 所在地 | 大分県大分市荷揚町 |
| 100名城スタンプ | 第94 大手門 |
| 城郭構造 | 梯郭式水城(平城) |
| 天守構造 | 独立式層塔型4重4階 |
| 築城者 | 福原直高 |
| 主な城主 | 竹中氏、大給松平氏 |
| 築城年 | 1597 |
| 廃城年 | 1872 |
| 城址碑 | なし |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | 【現存】宗門櫓、人質櫓、土塀 |
| 再建建造物 | 東丸着到櫓、二重櫓、西丸二重櫓、大手門、廊下橋 |
| 指定文化財 | 県指定 |
| 遺構 | 石垣、水堀、曲輪 |
| 現状 | 史跡府内城址 |
| 駐車場 | 府内城駐車場(無料) |
| 最寄り駅 | JR 大分駅 |
城犬のおいど 攻城記録
大分城址公園
大分城址公園は、江戸時代の歴史的な面影を残す都市公園として、復興土地区画整理事業により1970年(昭和45年)に開園しました。開園に先立ち1966年(昭和41年)に戦災で焼失した着到櫓・大手口多門櫓・西之丸北東隅二階櫓として復元され、当時の光景を伝える重要な施設となっています。

その後、1996年(平成8年)には、廊下橋も復元され、現在は松栄神社がある北之丸(山里丸)と城内の西之丸を結んでいた当時の面影がよみがえりました。このように当時の様子を色濃く残す府内城は、2006年(平成18年)に、日本100名城の選定を受け、府内城の歴史的資源を活かしながら、歴史文化観光拠点の形成に向けて整備が進められています。
※現地案内看板より

案内板

西之丸
本丸の西に位置し、櫓が4棟配されていました。「府内藩日記」から玄関・居間・書院・台所などの多くの部屋から成る建物があったと思われます。
※現地帯曲輪にある看板より

大手門


スタンプ設置場所
日本100名城スタンプ設置場所
パンフレットもあります。


大手門の廊下橋とかがみ石
大手門と三之丸との間にある内堀には、廊下橋がありました。城にかかる橋の中でも、橋に屋根を付け両側を壁で覆っているものを言い、城の防備のために人の移動を知られないようにする役割を担っていたと考えられています。明治時代には、廊下橋は撤去され、堀の一部が埋められて現在のような通路となっています。

その廊下橋の正面にある石垣には、「かがみ石」と呼ばれる石が据えられ、周りの石垣の石と比べてひときわ大きな石が使われています。こうした「かがみ石」は、多くの城に見られ、藩主(城主)の権力の象徴とされました。
※現地説明板より

宗門櫓
大手門をくぐると正面左に見える櫓で、外から見ると平櫓に、城内からは二重に見える建物です。安政元年(1854)に修築が行われ、大分大空襲から被害を免れ、築城当初の面影を残す数少ない建物です。
※現地帯曲輪にある看板より

着到櫓

平櫓
三階櫓は、1599年(慶長4年)に福原直高が建てた3階の高楼で、1743年(寛保3年)の大火で焼失し、現在は石垣のみが残っています。三階櫓の石垣は内堀側に張り出すことで南側の平櫓の方向に角を設け(入隅)、防御を固めていました。

この入隅は、鉄砲や弓矢を横から射掛け、死角をなくして敵を多角的に攻めるためのものです。現在の平櫓は、1966年(昭和41年)に建てられた模擬櫓です。
※現地説明板より


帯曲輪
桜並木があるこの場所は、「帯曲輪」と呼ばれています。「帯曲輪」は江戸時代に大分川の河口につくられた堤防状の土手で、城の中心部を防御するために内堀の東側から北側を囲むように長さ600m以上にわたって築かれました。

幕府の命によって府内藩が作成した「豊後府内城之絵図」(1644年/正保元年)には、松並木が描かれていることから、松が植えられていたことが伺えます。現在、内堀の一部は埋め立てられていますが、帯曲輪の位置を示すために約120mにわたって石を並べ、平面表示を行っています。
※現地説明板より

二階櫓
北東角の二階櫓は、1743年(寛保3年)の大火により焼失しました。現在の櫓は、1966年(昭和41年)に建てられた模擬櫓です。この櫓の北側には、かつて「水手口」と呼ばれる場所があり、門と内堀に降りる階段がありました。

天守や東之丸の三階櫓などが焼失した1743年(寛保3年)の大火の際には、御朱印(幕府からの大切な書類)をここから舟で運びだし、一時避難する通路として使われました。
※現地説明板より

扇櫓跡
本丸の北東角には、平面が扇形の平櫓が建てられていました。この場所は、府内城の鬼門(北東の方角)にあたるため、隅に角をつけない扇形にした鬼門除けの手法がとられています。さらに櫓には邪気が入り込まないように窓もありませんでした。この櫓は、1770年(明和7年)の絵図には、一部破損した様子が描かれています。

現在、櫓は残っていませんが、1884年(明治17年)の県の公文書に櫓の払い下げについての記録があり、少なくともこの時期までは存在していたことがわかっています。
※現地説明板より


人質櫓
本丸の北側に位置する二階櫓で、1854年(安政元年)の大地震により破損しましたが、1861年(文久元年)に再建されました。建物は、1階が三間×三間(約6.9m×約6.9m)、2階が二間×二間(約4.9m×約4.9m)で、外壁は半間ごとに柱が配置されています。

外観は、東西に棟が延びる入母屋造りの構造で、軒先に見られる出桁を柱から突っ張るために斜め材である方杖が使われているなど、江戸時代の櫓の形態を今に伝えています。
※現地説明板より

内堀

稲荷大明神

松栄神社

廊下橋
松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた郭のあった所です。山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられていた渡り廊下が、この廊下橋です。山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元しました。

復元に先立って、平成7年度に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かりました。復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社蔵絵図」等を参考にしました。廊下橋の規模は、長さ21.7m、幅員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の最高高さ4.6m、檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮葺きとなっています。
※現地説明板より

築城当時(慶長)の石垣




人柱お宮
今からおよそ400年余り前、福原直高がこの地に荷揚城(現在の府内城)を築城する際、度重なる水害で工事が進まなかったことから、人柱を立てることになりました。「人柱の家族の者は、一生安楽に暮らせるようにする」というお触れに、上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救うために立ち、弁財天の木像を抱いて人柱になりました。

その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられたと伝えられています。手前の階段を下った所、お堀に沿った天守台の下にお宮を祀った祠があり毎年3月18日に法要が行われています。
※現地説明板より


本丸櫓台

天守台
天守は約16mの高さを持つ4層式建物で、壁には優美さを添える華灯窓が付けられ、上棟には鯱鋒瓦が葺かれていました。今は、天守台のみが当時の面影を偲ばせてます。
※現地帯曲輪にある看板より

東之丸
藩主の御殿と三階櫓を含む5棟の櫓がありました。御殿は居間、湯殿、御台所、大広間、御茶所、老女部屋等、数多くの部屋に分かれていました。
※現地帯曲輪にある看板より










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