概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・横堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
岩屋城は、福岡県太宰府市大字観世音寺の四王寺山南西中腹、標高約281メートル(比高約230メートル)の尾根筋上に築かれた戦国時代の山城跡である。大宰府政庁跡や観世音寺、水城を見下ろす要衝に占地し、背後の大野城跡と連動して筑前中央部を扼する。山頂の本丸(主郭)を中心に帯曲輪が巡り、北側背後の尾根筋を堀切と土塁で遮断している。本丸南西下段には二の丸(高橋紹運墓所付近)が配され、南東へ派生する尾根上には多数の堀切や竪堀、階段状の削平段、畝状竪堀群などの土木遺構が山林内に良好に遺存している。主郭跡には「嗚呼壮烈岩屋城址」の巨大な石碑が立ち、太宰府市内外を一望できる。
歴史的役割
大友氏の有力武将・高橋鑑種によって宝満山城の支城および筑前支配の拠点として天文年間に築かれたと伝わる。鑑種が大友宗麟に反乱を起こして追放された後、吉弘鑑理の次男・高橋鎮種(高橋紹運)が入城した。天正14年(1586年)7月、九州制覇を狙う島津義久は島津忠長・伊集院忠棟ら率いる2万余の大軍を派遣し岩屋城を包囲(岩屋城の戦い)。紹運はわずか763名の手勢とともに徹底抗戦し、約半月にわたり大軍を釘付けにした末、城兵全員とともに玉砕・討死した。この壮絶な遅滞戦によって島津軍は甚大な被害を受け、豊臣秀吉による九州征伐軍の到着を許す決定打となった。天正15年の九州平定後、立花宗茂によって奪還されたのち廃城となった。
見どころ
本丸背後を遮断する堀切および土塁遺構、南東尾根筋に刻まれた連続堀切・竪堀および畝状竪堀群、本丸跡に建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」石碑、二の丸跡に佇む忠臣・高橋紹運の墓(胴塚)および辞世の句碑、本丸から大宰府政庁跡・水城・福岡平野を一望する絶景
ご当地グルメ
城犬のおいど 攻城記録
岩屋城跡(本丸跡)
岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種によって築かれた。同12年彼は主家大友宗麟に叛き城を追われ、代わって吉弘鎮理(後の名称高橋紹運)が城主となった。

紹運は天正14年(1586)九州制覇を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち、激戦十余日、秀吉の援軍到着を待たず玉砕し落城した。
※現地看板より

九州自然道



本丸

城址碑

岩屋城跡
この場所は、岩屋山(標高281m)と称し、戦国時代には岩屋城の本丸(甲の丸)であったと伝えられている。林道で分断された南側下方には二の丸跡があり、1586年の岩屋城の合戦で討死した城主の高橋紹運の胴塚がある。また、この主郭の周囲から山麓にかけての広範囲に、曲輪(平坦面)、竪堀、堀切も残されている。

また、本丸跡にある「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑は、昭和30年に高橋紹運の家臣の子孫によって建てられたものである。
※現地案内板より


筑前国分寺跡
741年全国に造られた国分寺のひとつ。巨大な塔心礎が残る塔跡や講堂の基壇が整備され、近くの文化ふれあい館には七重塔の復元模型がある。
※現地案内板より




岩屋山


腰曲輪



高橋紹運公並びに勇士の墓
戦国の武将高橋紹運は23歳で岩屋城主となり名称の誉れ高かった。天正14年(1586)北上した島津5万の軍と戦い、城兵763名と共に玉砕した。時に、39歳であった。紹運以下勇士たちここ二の丸趾に眠る。
※現地看板より

高橋紹運公墓へ


二の丸

墓所
当所は、高橋紹運公ならびに、家来衆の墓所であり、私有地であります。したがって墓参以外での立ち入りを禁じます。又、供物は参拝者が責任をもってお持ち帰り下さいますようお願い致します。
※現地看板より


岩屋城戦列者之碑

高橋紹運公碑銘




段曲輪

堀切


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