概要
高島城は、長野県諏訪市の諏訪湖に突き出すように築かれた平城で、「浮城」の別称を持つ。豊臣秀吉の命により日根野織部正高吉が1592年に築城を開始。近世城郭の様式を取り入れ、堅固な石垣と水堀を巡らせた。関ヶ原の戦い後、諏訪氏が城主となり幕末まで続いた。明治期に破却されたが、1970年に天守などが再建され、現在は高島公園として整備され市民の憩いの場となっている。本丸を中心とした輪郭式の縄張が特徴で、美しい姿を見せる。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | タカシマジョウ |
| 別名 | 浮城 |
| 所在地 | 長野県諏訪市高島一丁目 |
| 100名城スタンプ | - |
| 城郭構造 | 輪郭式平城 |
| 天守構造 | 不明不明 |
| 築城者 | 日根野織部正高吉 |
| 主な城主 | 日根野氏・諏訪氏 |
| 築城年 | 1592年 |
| 廃城年 | 1871年 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | 三之丸御殿裏門 |
| 再建建造物 | 天守(鉄骨鉄筋コンクリート造)・隅櫓・門・塀 |
| 指定文化財 | 市指定 |
| 遺構 | 石垣・堀(一部) |
| 現状 | 高島公園として整備・模擬天守再建 |
| 駐車場 | あり・高島公園駐車場・無料 |
| 最寄り駅 | JR中央本線 上諏訪駅から徒歩約10分 |

城犬のおいど 攻城記録

高島城本丸の堀と石垣
高島城は、衣之渡川・中門川などの川を堀とし、諏訪湖と阿原(沼沢地)に囲まれ、縄手だけが城下町に通じていた。天守の石垣と、本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、西側と南側の石積みは簡単なものであった。

衣之渡郭・三之丸・二之丸などの石垣も比較的小規模である。石垣は、野面積みで、地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。
※現地看板より

冠木橋



冠木門跡
冠木橋を渡ったところに冠木門があった。冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことをいうが、高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼ばれる屋根付きの門であったことがわかる。

おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称のみ残されたものであろう。
※現地看板より

高島城本丸絵図

高島城 浮城とも言う
この地は高島城本丸跡である。この城はおよそ三百八十年前 文禄 慶長年間日根野織部正高吉が七年を要し彼独特の築城の技術を生かし諏訪湖の波打ちぎわにきずいた難攻不落の水城で別名を浮城とも言われている。関が原役の後は諏訪氏の居城となりそのまま転封もなく維新までつづいた。

この間 城は中山道や甲州街道の道中記には必ずのせられる名勝でもあった。本丸内は藩主の御殿や書院、また一般政務の御用部屋、郡方、また賄方などがあり、能舞台、氷餅部屋など多くの建物で埋まっていた。明治維新の改革で高島藩は消え、明治八年には天守閣も破却されたが、諏訪氏の在城二百六十余年間、一度も百姓一揆をおこさせるような暴政のでたことのない名城であった。

明治九年本丸跡は高島公園として公開され、護国神社も祭られ、諏訪の人人の心のよりどころとして親しまれてきた。今日も城内と言われた大手門以南の地形がおおよそ昔のままの姿をのこして近世の城郭を考えるいい資料である。今度の復興については文部省文化財専門委員大岡実博士の設計により、破却当時の姿を忠実に再現したものである。

庭園は天守復興とともに諏訪高島城復興期成同盟会長岩本諏訪市長が自らの設計により、諏訪市が人の心の和によっていよいよ発展することを念願して、人字形の池に心を島で表わし、滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものである。
※現地石碑より

角櫓跡

多門跡

能舞台跡
ここは、能舞台があった場所である。当初、本丸の御殿内にあったが、文政10年(1827)に新築されたもので、舞台の鏡板には、岩本琴斎が描いた老松の絵があった。明治3年(1870)3月、高島藩主の菩提寺であった温泉寺が大火で焼失した際、本堂として移築された。

本舞台や御座などの遺構を残す本堂、本堂と庫裏の廊下に壁画のような形で保存されている鏡板は、諏訪市の有形文化財に指定されている。
※現地看板より


本丸御殿跡
ここは、本丸御殿があった場所である。家老など重職との接見や重要な行事が行われた表御居間・御次・下御次・下段之間があり、御納戸・中御納戸・御祐筆部屋・大納戸部屋など藩主の身の周りの世話をする部屋が付属していた。

奥には藩主の私生活の場である御休息居間・同二之間・同三之間があり、江戸城でいえば、大奥にあたる長局と呼ばれる部屋が隣接していた。また、御用部屋や郡方、御勝手方など藩政の中核となる部屋も備えられていた。
※現地看板より

高島城亀石
この亀石は、元々城内の庭園にあったが明治8年廃藩の時に城外に移され、以後所有が引き継がれ河西謙吉氏庭に安置されていた。平成19年、132年ぶりに高島城公園に戻った由緒ある石。水をかけると、まるで亀が生きているようになり願いがかなうりと言われています。
※現地看板より


持方月櫓跡

三之丸御殿裏門
ここは、かつて御川渡御門(御川戸門)と呼ばれた門があった場所である。城が湖に面していたころは、ここで湖の舟に乗ることができた。この門は三之丸御殿の裏門である。三之丸御殿は、藩主の別邸で、吉凶その他の儀式に使われた。また、藩主がくつろぐところでもあった(現在の高島1丁目8番地付近)。

門は、昭和63年に所有者から市に寄贈され、この地に移築された。
※現地看板より


高島城
高島城は天正18年(1590)、豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉によって設計され、文禄元年(1592)着工、慶長3年(1598)完成した。この高島城は、諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐり濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城の石垣に迫り、「諏訪の浮城」と呼ばれ慶長6年(1601)初代藩主諏訪頼水から10代藩主諏訪忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇ってきた。

明治4年(1871)廃藩置県となり、明治8年(1875)廃藩置県によって天守は撤去され、翌明治9年(1876)5月高島城趾は「高島公園」として、一般に開放された。朝夕の「時の太鼓」が鳴らなくなって100年、諏訪の住民の「高島城」に寄せる愛着は強く、昭和45年(1970)春、ここに「高島城」は復興された。
※現地看板より

石集配湯枡
享和3年(1803年)第7代藩主忠粛の頃、城内三の丸浴場に、引湯のため木樋を継ぎ、集湯・配湯をした石枡である。
※現地看板より






諏訪湖
海抜759m、湖周15.9km、面積13.3㎢で長野県で一番大きな湖。冬期に全面結氷して発生する「御神渡り」で知られる。高島城ができた頃には、天守が建つこの場所に湖岸が迫っていたが、干拓・埋立などによって、湖が小さくなっていった。
※現地天守展望階案内板より

2017/1最終訪問
城郭周辺地図
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