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筑後国 柳川城 [Yanagawa Castle]

概要

柳川城(やながわじょう)は、筑後平野の湿地帯に築かれた日本屈指の水城(平城)です。戦国時代の天文年間、蒲池鑑久によって本格的に築かれたと伝わります。豊臣秀吉の九州征伐後は田中吉政が入城し、天守の造営や強固な掘割(水路)網を整備して近代城郭へ一新させました。江戸時代は立花氏11万石の居城として明治まで機能。現在は本丸跡が学校敷地となっていますが、城下を巡る広大な水路網に往時の防御機構の面影を色濃く留めています。

城郭詳細データ

項目内容
ヨミカナヤナガワジョウ
別名柳河城
所在地福岡県柳川市本城町
100名城スタンプ第-番 -
城郭構造輪郭梯郭式平水城
天守構造不明
築城者蒲池鑑広
主な城主蒲池氏、戸次氏、田中氏、立花氏
築城年天文年間
廃城年1872年
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
再建建造物なし
指定文化財柳川市指定史跡
遺構水堀・石垣・土塁・曲輪跡
現状川市立柳城中学校、柳川高校、宅地
駐車場なし (周辺有料駐車場利用)
最寄り駅西鉄柳川駅からバス「柳川高校前」下車・徒歩約10分


城犬のおいど 攻城記録


城址碑


柳川城址


柳川藩主立花氏12万石の本拠となっていた平城跡。永禄年間(1558~1569)蒲池鑑盛入道宗雪が、支城として築いたのがはじまりと伝えられています。天守の高さは、10丈7尺5寸1分(約35m)、石垣の高さは4間1尺5寸(約8m)、天守の棟には鯱があり、

その目は金色に輝いていたというほどの栄華をきわめた名城でしたが、明治5年に焼失。現在は柳城中学校の校庭の一隅に小丘と石垣の一部を残すのみとなっています。(昭和53年5月柳川市文化財史跡に指定)
※現地案内板より

柳川城跡


柳川城は永禄年中(1558~1569)蒲池鑑盛によって本格的な城としてつくられたもので天然の要害である。水の利を充分にいかした平城で堀をめぐらし扉の開閉によって場内の水が増減出来るようになっていた。

鑑盛の子鑑漣に至り天正八年(1580)龍造寺による数ヶ月に及ぶ攻撃に耐え柳川城攻略を挫折させた。翌年龍造寺により佐賀に於いて謀殺されその一族もすべて殺害され応永以来の蒲池一族は滅亡した。天正12年(1584)大友勢の筑後攻略にも柳川城に一指だも染め得なかった。天正15年(1587)立花宗茂が豊臣秀吉の九州平定に際してその功により筑前立花城より19才で当地にうつされたが、

慶長五年(1600)関ヶ原役において西軍にくみしたため在柳わずか13年にして解任された。この後に岡崎城主田中吉政が筑後一円32万石の領主として入国し柳川居城とするに及び石垣を更に高くし天守を築き従来にも増して防備を厳重にした。戦国動乱の2度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった本城はここにおいていよいよ天下の名城としての名声をたかめた。

当時人々が(柳川3年肥後3日肥前久留米は朝茶の子)と言ったのは柳川城の堅固さを如実に物語ったものといえよう。元和6年(1620)田中吉政の子忠政に後継なく断絶したため奥州棚倉1万石より12万石の領主として立花宗茂が再度当地に入国した。以来明治維新を迎えるまで250年間立花藩の居城であった。明治5年(1872)正月18日夕刻火を発し慶長以来威容を誇った天守閣も一夜にして消失した。

石垣については明治7年(1874)の台風により海岸堤防が決壊したためその補強に転用された。昭和3年(1928)のかい開田後柳川商業高等学校(現在の柳川高校)柳城中学校がたてられ現在に至っている。今は古城を偲ぶ面影はさらになくわずか開田を免れた天守跡のみとなり時代の要請にこたえたとはいえ往時を懐古すれば興衰のはげしさを物語るものといえよう。※現地教育委員会看板より

柳川城跡


柳川城は、戦国時代末、蒲池鑑盛によって造られたと考えられますが、当時の縄張りなどを示す史料はありません。ただし当時の柳川城は「二方は海、二方は沼堀縦横」薦野家譜 、つまり掘割と海に囲まれた城でした。

天正15年、立花宗茂が入城すると、天守や櫓、橋(参照‥三柱神社欄干橋の擬宝珠)などの建築を命じました。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、改易された立花宗茂に替わって柳川城に入った田中吉政が、柳川城と城下町を大規模に改修したと考えられます。元和6年(1620)、立花宗茂が筑後柳川に再封され、以後立花家歴代の居城となりますが、

明治5年(1872)、失火により本丸・二ノ丸と天守は焼失、その後、払い下げられて、本丸・二ノ丸を囲んだ城濠は埋め立てられて、現在は、市立柳城中学校内に柳川城跡の公園として整備されています。(柳川市指定史跡)
※現地本丸案内看板より

城湟西北隅石碑


弥兵衛門跡


田中吉政公之像


田中吉政は天文17年(1548)近江国(滋賀県)に生まれました。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、天正18年(1590)、5万7千石余の岡崎城主となり、のちに加増され10万石の大名となりました。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦では東軍に組し、敵将石田三成を捕らえた功績により、筑後一円の国主となり、柳川城を居城としました。田中吉政は、天守閣の築造など柳川城の整備や各支城の強化、筑後川・矢部川の治水事業、本土居の築堤をはじめとする干拓事業、道路の新設・整備などの土木事業に業績を残しましたが、

慶長14年(1609)2月18日、江戸参勤の途中、伏見で客死しました。享年62歳で、京都の黒谷に葬られたとされています。
※現地案内板より

2026/6最終訪問


城郭周辺地図

福岡県柳川市本城町

なし


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