概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 水堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
蒲池城は、福岡県柳川市東蒲池の天満神社周辺に位置する中世平水城跡である。柳川市指定史跡。有明海沿岸低地特有のクリーク(堀割)網が縦横に走る沖積平野の微高地に占地し、筑後十五原の筆頭として権勢を誇った名族・蒲池氏の発祥の地・根拠地である。神社の境内地が本丸(一の郭)跡と伝わり、周囲を多重に取り巻く水堀(環濠)や水路網、本丸を取り巻く土塁、切岸状の高まりが良好に残る。外周にも二の丸・三の丸に相当する方形区画がクリークで区切られて配され、水郷地帯の特性を最大限に活かした典型的な水城(環濠城館)の縄張構造を誇る。境内には城址碑や解説板が立ち、蒲池氏代々の墓所や菩提寺である崇久寺も近接する。
歴史的役割
建武年間(1334~1338年)頃、藤原純友の子孫とされる嵯峨源氏・源満末の末裔である蒲池久憲が南朝方の拠点として築いたことに始まる。室町・戦国期を通じて蒲池氏は筑後南部を統轄する有力国人領主として発展し、天文年間に蒲池治久が柳川城を築いて本拠を移した後も、蒲池一族(祖久・鑑種ら下蒲池氏)の重要な居城・支城として機能し続けた。天正9年(1581年)、柳川城主・蒲池鎮並が肥前の龍造寺隆信の謀略により佐賀で謀殺されると、龍造寺軍は柳川城および蒲池城へ侵攻。蒲池城に籠もる蒲池一族・城兵は奮戦したものの猛攻を受けて落城し、蒲池本家とともに城も廃絶の運命をたどった。筑後の中世政治・軍事史を象徴する重要な城館遺跡である。
見どころ
本丸跡である天満神社の境内を取り巻く多重水堀(クリーク環濠)遺構、神社境内縁辺部に遺存する土塁および切岸の高低差、境内に建立された柳川市指定史跡蒲池城跡の石碑および詳細な歴史解説板、戦国武将蒲池鑑盛ゆかりの菩提寺・崇久寺の佇まい、水郷柳川特有のクリーク防衛網の原型を留める周囲の地割景観
ご当地グルメ
うなぎのせいろ蒸し、柳川鍋、有明海むつごろう料理、筑後うどん、柳川海苔
城犬のおいど 攻城記録
駐車場

崇久寺
凌霄山崇久寺は、鎌倉時代初期に筑後国三潴郡蒲池に移り蒲池姓を名乗った蒲池家の菩提寺である。現在は臨済宗妙心寺派。寺伝では初めは長福寺といい、後醍醐天皇の勅願寺となったが、

兵火を受けたため暦応2年(1339年)に足利尊氏が再建し、聖一国師の法嗣・南山和尚(士雲)を開山したという。宝徳年間(1449~1451)の古文書に「蒲池崇久寺」とみえることから、その以前に「崇久寺」となっていたことがわかる。天正9年(1581年)蒲池氏滅亡の時、諸寺・諸院・勅額が焼失。その後、勅命により京都南禅寺の住職清韓の筆による崇久禅寺の勅額をいただいて再建した。

天正15年(1587年)柳川に入城した立花宗茂は寺領八反を、筑後国主となった田中吉政は慶応6年(1601年)に寺領4石余をそれぞれ寄進し、元和6年(1620年)筑後柳川に再封された立花氏も同様に寺領を寄進した。なお、現在の本堂は安政7年(1860年)の建築である。本尊木造11面観音座像は、南北朝から室町時代にかけて、慶派の作と伝えられている。

脇立は増長天像及び多聞天像である。開山の南山和尚(士雲禅師)の像(頂相)は、永禄12年(1569年)矢ヶ部の佛師士珍と士芳の作であるが、現存する頭部は近世京都の佛師円説が修理したものといわれている。参道西側には天文22年(1553年)に蒲池鑑盛が建立した一千部塔があり、本堂西側には蒲池鑑盛の笠塔婆及び蒲池氏一統のものと思われる石造五輪塔がある。

その他にも柳川城主蒲池鎮並(鎮漣)の娘で、大友氏の一族朽網氏に嫁し、後に筏溝(三潴郡大木町)に移り、寛永9年(1632年)に死去した徳女の碑をはじめ、下蒲池氏に関すると思われる古碑や自然石の塔が幾つかある。
※現地看板より

蒲池氏墓碑
柳川城主主蒲池鑑盛とその一族の墓碑

梵鐘

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