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肥後国 人吉城 [Hitoyoshi Castle]

概要

鎌倉時代初期に相良氏の初代当主である相良長頼によって築かれた平山城。球磨川と胸川が合流する要衝に位置し、中世から近世にかけて相良氏35代約700年間の居城として機能した。天然の要害と巧みな縄張りを持ち、近世城郭は球磨川を自然の堀として活用した堅固な水の手が特徴。現在は相良神社や熊本県立人吉高等学校の敷地となり、石垣や堀などの遺構が良好に残る。

城郭詳細データ

項目内容
ヨミカナヒトヨシジョウ
別名繊月城
所在地熊本県人吉市麓町
100名城スタンプ第93番 人吉城跡歴史館 9:00~17:00
城郭構造梯郭式・連郭式平山城
天守構造なし
築城者相良長頼・相良為続
主な城主相良氏
築城年1198年
廃城年1871年
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
再建建造物長塀・多門櫓・御下門・水の手門・舟着場
指定文化財国指定
遺構石垣・堀(水堀)・土塁・曲輪跡・門跡・井戸跡・御殿跡
現状史跡公園・神社敷地
駐車場あり・人吉城跡歴史館駐車場・無料
最寄り駅JR肥薩線人吉温泉駅より徒歩約15分


城犬のおいど 攻城記録


大手門櫓跡


胸川御門とも呼ばれた大手門は、城の正面入口となる重要な場所であったので、石垣の上に櫓(矢倉)をわたして下に門を設けた。さらに門前の通路は鍵形にして枡形に作り、また、門の北側には多門櫓を建てて、外濠となる胸川の対岸に大手橋を架けて防御している。門内には番所を置いて監視させている。

大手門櫓は正保年中(1644~1648)に建てられ、享保5年(1720)に造り替えられ、明治初期の払い下げで撤去された。撤去前に撮影された写真を基に描かれた油絵によれば梁間2間半(5m)、桁行12間(24m)の瓦葺き切妻型の櫓門で、壁の上部は漆喰塗り、下部は板張りとしている。大手門櫓と多門櫓の間には、長さ3mの瓦葺きの板塀がつく。
※現地説明板より

大手門櫓台


胸川御門とも呼ばれた大手門は城の正面入口となる重要な場所であったので、石垣の上に櫓をわたして下に門を設けた。大手門櫓は正保年頃(1644~1648)に建てられ、享保5年(1720)に造り替えられたが、明治初期の払い下げにより撤去されている。

門の南側には櫓台から胸川に対し石垣を堤防状に築き、多くの城兵が一度に門脇の塀裏に駆け上がれるように工夫されている。現在は、横に長く雁木が続いているが、18世紀後半に描かれたとされる「人吉城大絵図」には、大手門の櫓台から続くコの字構造の塀が、太字で描かれている。発掘調査では、この絵図と同じように、長さ1m大の巨石が列をなしていることが確認され、コの字構造の塀の基礎と推定している。
※現地説明版より

多門櫓跡


石塁上に建つ細長い櫓は、 一般的に多聞(多門)櫓と呼ばれる。人吉城の多門櫓は、城の正面口である大手門の脇を固めるために建てられた長屋風の櫓である。大手門櫓・角櫓と同様、江戸時代前期の1640年代の建てられ、宝永4年(1707)の大地震で傾いたので、修理されている。

幕末になると、「代物蔵」として使用され、寅助火事でも焼失せず、 廃藩置県後の払い下げで撤去された。写真は医師の佐竹文敬により、明治初期に撮影されたものである。建物は石塁に合わせて鍵形となっており、梁間2間(4m)、桁行25間(50m)で、 瓦葺きの入母屋造りの建物である。壁は上部を漆喰塗りとして窓をつけ、下部は板張りとしている。
※現地説明版より

長塀跡


球磨川と胸川に面した石垣上には、要所に櫓が築かれ、櫓や門の間には塀が立てられた。宝永4年(1707)の大地震で塀の一部が損壊すると、塀の控石柱を引き抜いて土台とした厚さ3尺(90センチ)の土塀に修復している。多門櫓の写真に見えるように、長塀は瓦葺き漆喰塗りとし、外側の下部には腰瓦が張られた。また、塀の一部には石落としのための突き出し部があった。
※現地説明板より

長塀石落とし跡


投石は古来から武器として利用されており、城郭建築においても櫓や塀に設置された。明治初期に撮影された多門櫓の写真には、長塀の城外側に突き出た石落としが見られる。発掘調査では石落としの控柱が2ヵ所で確認されており、平成5年に長塀とともに復元した。
※現地説明版より

軍役蔵跡


角櫓の南に位置するこの場所は、絵図面にある軍役蔵と買物所の一部にあたる。発掘調査の際、両施設を区画すると考えられる南北方向の溝をはさみ、西側の軍役蔵の敷地内には、蔵が3棟南北に立ち並び、南端には防火用水とみられる溜枡2基があった。

また、東側の買物所の敷地北西部には蔵が1棟建てられていた。「軍役蔵」「買物所」といった藩の施設が具体的にどのようなものであったか、はっきりしないが、これらの蔵の構造は土塀で、漆喰塗りの土蔵風建物であったと考えられる。
※現地説明版より

御下の乱供養碑


人吉城歴史館


人吉城大絵図


甲冑と太刀


地下室遺構(井戸)


受付で声をかけると中に入って見せてもらうことが出来ます。

後口馬場の井戸跡


大井戸遺構


人吉城では、井戸のある地下室が二つ発見されています。一つは「人吉城歴史館」の中庭にある地下室遺構で、二つ目はこの大井戸遺構です。地下室遺構は、寛永17年の「お下の乱」を描いた人吉城絵図によれば、家老を務めた相良清兵衛の屋敷内にあった二階建ての「持仏堂」に、大井戸遺構は、その息子の内蔵助の屋敷内にある「蔵」と書かれた建物の位置に相当するようです。

二つの地下室は、石段の降り口、踊り場、方形の大型の井戸、黒色の小石敷き、その下のスギ板敷きなど、構造が良く似ています。江戸時代の初期に建造され、寛永17年(1640年)7月の「お下の乱」の直後に破壊されて埋められていました。特殊な目的のために造られた井戸と推定されますが、全国では同様な遺構の発見例がなく、謎の多い遺構です。今回、実物展示のため石積みの復元修理を行い、上部に推定される建物と同じ規模(6m×7m)の覆屋を建設し、休憩施設としました。
※現地説明版より

武者返し


御館北辺の石垣上には、絵図にみえる長櫓があったが、文久2年(1862)の「寅助火事」で焼失した。翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くして、その上端に、槹出工法(はねだしこうほう)による「武者返し」と呼ばれる突出部をつけた。この工法は、西洋の築城技術で、嘉永6年の品川台場(東京)で 初めて導入され、五稜郭(北海道)や 龍岡城(長野)等の西洋式城郭で採用されているが、旧来の城郭で採用されたのは人吉城のみである。
※現地説明版より

水ノ手門跡


慶長12年(1607)から、球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。水運を利用するため、川に面した石垣には7個所の船着場が造られ、その中で最大なものが水ノ手門である。この門は、寛永17年(1640)から幕末まで、人吉城の球磨川に面する城門であった。享保13年(1728)、「御修理場御本帳写」によると、門の規模は三間で、門の内側に板葺きの御番所、茅葺の船蔵があった。

平成11年度の発掘の結果、門は大きく壊されていたが、階段や排水溝が確認できた。川側にあった船着場は、石張りの傾斜面になっていて、 水位の増減に対応できるように工夫されていた。水ノ手門近くにある 大村米蔵跡 ・ 欠米蔵跡の発掘調査では、「御用米」「免田納米」「上村納米」といった木札が出土していて、 免田や上村方面から、年貢米が球磨川の水運を利用し、この門から城内に運び込まれていたことがわかる。
※現地説明版より

堀合門(復元建造物)


堀合門は城主が住む御館の北側にあった裏門で、文久2年(1862)の『寅助火事』でも焼失をのがれました。明治4年(1871)の廃藩置県後は、城外の士族である新宮家(土手町)に移築され、人吉城如一の現存する建造物として、市の有形文化財に指定されています。形式的には棟門と呼ばれるもので、化粧垂木に強い反りを持たせた屋根の優美な曲線が特長的です。 

門跡の発掘調査では、門柱を建てた2つの疎石跡とその両側にあった排水溝が確認されました。この門は、旧位畳での発掘結果や移築され現存する門、絵図に描かれた姿に基づいて、平成19年度に塀や排水溝とともに復元したものです。
※現地説明板より

大村米御蔵跡・欠米蔵跡


人吉藩では、藩内12ヶ所に 米蔵を置き、このうちの 間(村)蔵 と 大村蔵 は、それぞれ城内の水の手口と堀合門東方に1棟づつあった。大村米御蔵 (西側礎石群) には隣接して、欠米御蔵(東側礎石群) があった。両方とも瓦葺きで、 4間 X 10間 の長大な建物であった。発掘調査で、「御用米」「免田納米」「上村納米」と墨書した木札が出土している。右手の門は堀合門である。
※現地説明版より

御下門跡


御下門は、「下の御門」とも呼ばれ、人吉城の中心である、本丸 ・ 二の丸 ・ 三の丸 への唯一の登城口に置かれた門である。大手門と同様の櫓門形式で、両側の石垣上に、梁間2間半 ( 5m ) 、桁行 10間 (20m)の櫓をわたし、その中央下方の 3間分 を門としていた。門に入った奥には、出入り監視のための門番所があった。
※現地説明版より

三の丸跡


二の丸


戦国時代までの人吉城は、東南の上原城を本城とする山城であり、この場所は 内城」と呼ばれる婦女子が生活する地区であった。天正17年(1589)、第20代長毎(ながつね) によって近世城としての築城が始まると、本丸や二の丸の場所となり、 慶長6年(1601)には、石垣が完成している。二の丸は、江戸時代の初めに、「本城(本丸)」と呼ばれているように、城主が住む御殿が建てられた人吉城の中心となる場所である。

周囲の石垣上には、瓦を張り付けた土塀が立ち、北東部の枡形には、櫓門式の「中の御門」(2.5間X9.5間 )があり、見張りのために番所が設けられた。また、北辺には、御殿から三の丸へ下る「埋御門」 が土塀の下に作られ、この他に、「十三間蔵」( 2間X13間 )や井戸があった。三の丸は、二の丸の北・西部に広がる曲輪で、 西方に於津賀社と、2棟の塩蔵 (2.5間X6~7間 )を、東の「中の御門」 近くに、井戸と長屋を配置するだけで、大きな広場が確保されている。その周囲には、当初から石垣は作られずに、自然の崖を城壁としており、「竹茂かり垣」と呼ばれる竹を植えた垣で防御している。

周囲の石垣上には、瓦を張り付けた土塀が立ち、北東部の枡形には、櫓門式の「中の御門」(2.5間X9.5間 )があり、見張りのために番所が設けられた。また、北辺には、御殿から三の丸へ下る「埋御門」 が土塀の下に作られ、この他に、「十三間蔵」( 2間X13間 )や井戸があった。三の丸は、二の丸の北・西部に広がる曲輪で、西方に於津賀社と、2棟の塩蔵 (2.5間X6~7間 )を、東の「中の御門」 近くに、井戸と長屋を配置するだけで、大きな広場が確保されている。その周囲には、当初から石垣は作られずに、自然の崖を城壁としており、「竹茂かり垣」と呼ばれる竹を植えた垣で防御している。

これは、人吉城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐ目的があった。二の丸御殿 享保4年(1719)の「高城二ノ丸指図」によれば、御殿は。北側を正面にするように配置され、「御廣間」(4間X9間 )・「御金ノ間」(6間四方 )・「御次ノ間」( 4間X6間 )の 接客・儀式用の 表向建物と、「奥方御居間」( 3間X8間 )・「御上台所」( 3間X9間 )・「下台所」(5間X8間)の 奥向 の建物の合計6棟からなる。これらの建物は、すべて板葺きの建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、 建物の間には、中庭が作られている。

これは、人吉城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐ目的があった。二の丸御殿 享保4年(1719)の「高城二ノ丸指図」によれば、御殿は。北側を正面にするように配置され、「御廣間」(4間X9間 )・「御金ノ間」(6間四方 )・「御次ノ間」( 4間X6間 )の 接客・儀式用の 表向建物と、「奥方御居間」( 3間X8間 )・「御上台所」( 3間X9間 )・「下台所」(5間X8間)の 奥向 の建物の合計6棟からなる。これらの建物は、すべて板葺きの建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、 建物の間には、中庭が作られている。

この内、「御金ノ間」 は、襖などに金箔が張られていた書院造りの建物で、城主が、生活・接客する御殿の中心となる建物である。
※現地説明版より

埋門


本丸跡


本丸は、はじめ「高御城」と呼ばれていた。地形的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所があった。礎石群は、板葺きで4間四方の二階建ての護摩堂跡である。

中世には「繊月石」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。
※現地説明板より

相良護国神社


人吉城御館跡庭園


御館は、天和三年(1683)に、城主・相良氏の居宅が置かれて、藩政の中枢となった場所である。公的な接客・饗応を行った表御殿の南端には、玄関がついた大広間や使者ノ間がおかれていて、この庭園を眺望できるようになっていた。本庭園は、霞がたなびくような中島を浮かべる池と、優美な稜線を重ねる築山群による雅やかな空間の中に、立石(りっせき)群からなる力強い滝石組を要に、三様を見せる石橋を見所として配する、池泉回遊式庭園である。 

庭園空間は、園内にとどまらず、背後の高御城や原城の丘と一体ものであり、重要な鑑賞位置である池の北岸の礼拝石と、滝口を結ぶ軸線は、中世相良氏の古城跡へと向かう構想は、水の流れに、鎌倉以来の相良氏の歴史を重ね、一族の由緒をたどる祖先敬慕の遙拝庭園である。優雅にして力強く、小空間にして宏大であり、眺めにも勝る相良氏の想い。歴史ある大名ならではの名園と言える。
※現地説明版より

相良神社神橋


2026/7最終訪問


城郭周辺地図

熊本県人吉市麓町

人吉城跡歴史館駐車場(無料)


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