城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | トットリジョウ |
| 別称 | 久松城、久松山城 |
| スタンプ設置場所 | 鳥取県立博物館 09:00-17:00(月曜定休) |
| 曲輪配置 | 連郭式 / 梯郭式 |
| 城郭種類 | 山城 / 平山城 |
| 築城者 | 但馬山名氏 |
| 築城年 | 天文年間 |
| 廃城年 | 1871年 |
| 主な城主 | 但馬山名氏、吉川氏、宮部氏、池田氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 262.9 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | |
| 復元建造物 | あり |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 史跡鳥取城跡 |
| 駐車場 | 鳥取県庁北側駐車場(無料) |
| 最寄り駅 | JR 鳥取駅 |

概要・現地案内板
現在見られる石垣で造られた城(近世城郭)の姿は、天正10年(1582)から嘉永2年(1849)の約270年の間に段階的に整備されたものです。
特に元和3年(1617)に入場した池田光政は、それまで5~6万石規模であった城を32万石の居城として一新します。
中ノ御門から続く大手登城路や、天球丸・二の丸も整備し、城の主要な部分はこの時に完成しました。
城内には、幕府の規制で3階以上の建物はありませんが、二ノ丸には創建時、最新の建築様式だった層塔型(正方形の櫓台に築かれ、上階を下階より規則的に小さくして積み上げた櫓。
初期のものは装飾がないデザインが特徴)の三階櫓が、山陰地方で初めて建てられました。
その後の鳥取城は、藩主の生活と藩の役所を担った御殿を中心に増改築されていきます。
江戸時代の終わりには、二ノ丸や三の丸が大きく拡張されたほか、三の丸の南側には凶作に備えて籾を保管する倉庫群が造られました。
城内の建物は、明治時代に大半が取り壊され、残った石垣も昭和18年(1943)の鳥取大地震で多くが崩れました。
城の建物は残っていませんが、宝扇庵(旧化粧の間)や倒壊後復元された中仕切門が当時の面影を今に伝えています。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録

擬宝珠橋

中ノ御門(大手門)




太鼓御門石垣
関ケ原の戦い後に入城した池田長吉は、慶長7年(1602)から城内の大改造に着手しました。特に久松山麓の「山下ノ丸」と呼ぶニノ丸、三ノ丸などを整備し、現在の鳥取城の基礎をつくりました。この時、大手口を県立博物館の入口になっている北ノ御門から、現在の中ノ御門に改めました。城下からニノ丸、三ノ丸へは、堀の擬宝珠橋を渡り、中ノ御門の櫓門をくぐり、太鼓御門を通ってから入ることになります。

太鼓御門は、左右の石垣に懸け渡した桁行12間(約22m)、梁行2間半(約4.5m)の櫓門です。御門の渡櫓に時刻を知らせる太鼓が据えられていたことから、この名がつけられました。太鼓御門石垣の下(太鼓御門と中ノ御門の間)は、家臣などが登城する際、駕籠や馬から降りる場所で、下乗場(げじょうば)と呼ばれていました。ここからは徒歩で上がることになっており、槍の所持も禁じられていました。

三ノ丸跡
三ノ丸のこの城郭は、池田長吉の時代に鳥取城大改造によって築造されたものである。その後、初代藩主光仲、二代藩主綱清は隠居後ここに住んだが、三代吉泰の時、区画を拡張し、新たに三ノ丸に御殿を建て藩主の居館とした。よって藩政の中心も二ノ丸からここに移った。
※現地看板より




「お左近」の手水鉢
近世城郭としての鳥取城の基礎は、池田長吉の時代に築かれました。この時の工事にあたって、池田長幸(長吉の子)夫人の侍女「お左近」の活躍はめざましいものだったようで、このお左近の手水鉢を石垣に築き込んだところ、難工事であった三階櫓も、無事完成したという伝説が残されています。
※現地看板より


裏御門跡



石切場跡
目の前の崖は、の前の崖は、石垣を築くために石を切り出した石切場の跡です。もともとこの場所には、久松山の中腹から続く尾根があったようです。しかし、二ノ丸の敷地を造る時、その尾根を切り崩しながら、得られた石材で石垣が築かれました。崖の表面を注意深く見て下さい。長方形の穴が刻まれています。これは「矢穴」といい、「矢」と呼ばれるクサビを打ち込むための穴です。

こうした穴に鉄製(一説には木製)の「矢」を入れ、大きなハンマーで叩き岩を割り、石を切り出しました。城内には、本丸へ続く中坂道周辺にも石切場が残っています。石垣を築く時、最も経費のかかる工程は、石の運搬でした。従って、城の近くで石垣に適した石が採れることは重要で、鳥取城の石垣も大部分が久松山で産出する石が使われています。ただし、昭和34年(1959)以降の修復箇所は、久松山の保全のため、主に他地域から産出する石が使われています。
※現地看板より

鳥取城二ノ丸三階櫓石垣
天端角石
昭和40年の三階櫓石垣修復工事に際して発見された、北東面の天端角石(上面の角の石)です。銘文には普請奉行・下奉行と職人の棟梁の名前が刻まれています。享保5年(1720)の石黒火事で焼失した三階櫓が同13年に再建されたとき、建物だけでなく石垣も修復を受けていたことがわかりました。
※現地看板より

三階櫓跡
この櫓台には、一階八間四方、二階六間四方、三階四間四方の櫓が建てられていた。元禄5年(1692)に山上ノ丸の天守櫓が焼失したのちは、この櫓が鳥取城を象徴するものとなり、明治12年の解体撤去までその偉容を誇っていた。
※現地看板より

二の丸跡
ニノ丸には、江戸時代の前期には、藩主が住み、家老などが政治を司る、藩主の御殿がありました。鳥取池田家三代・吉泰の時代に御殿が三ノ丸に移され、享保5年(1720)の石黒大火で全体が焼失しました。三階櫓などは早く復旧されましたが、御殿は幕末の弘化3年(1846)になるまで再建されませんでした。

二ノ丸は鳥取城を象徴する場所として市民に親しまれており、昭和32年(1957)に国の史跡に指定された後、最初に石垣の修復工事が行われました。
※現地看板より

走り櫓跡

表御門跡

菱櫓跡
菱櫓は平面形が菱形に構築された櫓台の上に建物が建てられ、建物も菱形であった。櫓台には二層の櫓が建ち1階は4間四方であった。二ノ丸の西南隅の三階櫓と東南隅のこの菱櫓の対比で鳥取城の風格を現わしており、明治維新までその偉容を誇っていた。
※現地看板より



三ノ丸庭園跡
目の前の山の斜面は、三ノ丸(現・鳥取西高等学校敷地)は、江戸時代中頃以降、藩主の御殿が建てられ、城内で最も重要な場所でした。この庭園は、かつて山の斜面に園路が巡り、山の起伏を利用したものでした。このような城郭内の庭園は、鳥取城のほかに、金沢城玉泉院丸庭園(石川県金沢市)、和歌山城西の丸庭園(和歌山県)、松山城二ノ丸庭園(愛媛県松山市)など数える程であり、極めて貴重な庭園跡と言えます。
※現地看板より


風呂屋御門跡

天球丸
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、鳥取城の城主になった池田長吉の姉、天球院に由来する曲輪(平地)である。若桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人であった天球院が、山崎家を去って長吉のもとに寄寓し、この曲輪に造られた居館に住んだことから名付けられたという。

天球丸には、風呂屋御門と呼ばれる門、東側隅に建てられた3層の櫓などがあったことが古絵図などから知られている。3層櫓は享保5年(1720)の大火(石黒火事)によって焼失し、その後は再建されることはなかったようである。幕末頃には、武術の稽古所、御蔵が建てられたことが記録に残されている。
平成2年からの石垣修理に伴う発掘調査で、古い石垣や石段、三層櫓や御蔵の礎石が発見された。現在地の地下から発見された石垣、石段は、これまでその存在が知られていなかった遺構である。

高さは約5メートルで、長吉入城以前に構築された小規模な曲輪をめぐる石垣の一部である。その後、大規模な曲輪の拡張とともに、天球丸の前身となるこの石垣は埋められ、現在に残る曲輪が造られたものと考えられる。 発掘調査では、瓦、唐津焼、伊万里焼等の陶磁器、鎹、簪、煙管等の金属製品が出土した。また、少量ではあるが中国、朝鮮半島製の陶磁器も発見されている。
※現地看板より

三階櫓跡と武具蔵跡
三階櫓は、元和3年(1617)以降に建てられました。調査では建物跡のほか、北西側に溝も見つかりました。1階の規模は桁行15間(約30m)梁間4間(約8m)と思われ、城内最長の櫓だったようです。しかし、江戸時代中頃の火災で焼失し、以後再建されることはありませんでした。

※左側に展示した石は、三階櫓の礎石として実際に使用されたものです。火災のはげしい炎によって熱を受け、いずれの表面も赤みを帯びています。発掘調査では、ほかにも、火災で焼けた瓦や、大量の炭片も見つかりました。
※現地説明板より

武具蔵
三階櫓が焼失した後、その礎石は埋められ、この場所は100年以上の間、空き地のままでした。しかし、天保10年(1839)に武具蔵が建てられました。規模は桁行10間(約20m)梁間4間(約8m)です。外側の帯状の石敷は、分厚い土壁を支えるための基礎で、絵図に描かれたとおり土蔵であったことが確認されました。ここからは、武具蔵に保管していたと思われる鉛製の鉄砲弾(直径1.3㎝)も出土しました。
※現地説明板より





久松中坂大権現

六合目


山伏の井戸

鳥取城は、戦国時代中頃(天文年間)に、久松山の自然地形を利用した山城として築かれたことに始まる。以後、因幡地方の政治拠点となり、近世においては因幡・伯耆二国の支配拠点の城として長い間存続した。このため、鳥取城跡には、中世の山城的遺構と近世城郭遺構が併存しており、日本城郭史上でも類例の少ない城跡である。このことから、学術的・歴史的にも貴重な城跡として昭和32年に国の史跡に指定された。

鳥取城の築城時期については諸説があるが、この城が因幡支配の拠点の本城となったのは武田高信の時期であり、後に山名豊国がここに移った。この頃の鳥取城の中心は、山上ノ丸とそこから西方に延びる非常に急な尾根を中心に設けられており、現在も斜面を平らに削った平坦な遺構が数多く残っている。山頂を中心とした山上ノ丸は、久松山を大きく切り開き、その廻りを高い石垣で囲っている。

本丸には、天守櫓・車井戸・多聞櫓・着見(月見)櫓等を設けていた。天守櫓は元禄5年(1692)に落雷のため焼失してしまい、再建されることはなかったが、その他の建物は明治時代の初めまで残っていた。山上ノ丸には、本丸の他にも東側にニノ丸、三ノ丸とよばれる曲輪があり、一段低いところに出丸が設けられている。西の尾根を下ると鐘ヶ平、太鼓ヶ平、松ノ丸などの曲輪が残されている。

なお、鳥取城は戦国時代の末に、織田氏と毛利氏の対立から二度にわたって、羽柴秀吉の攻撃を受けている。特に天正9年(1581)の秀吉と鳥取城将・吉川経家との戦いは「鳥取の渇(かつ)え殺し」として知られ、そのときに秀吉が築いた陣跡が本陣山に残っており、太閤ヶ平として鳥取城跡とあわせて指定されている。

河原城

山上二ノ丸跡

本丸虎口

本丸跡
鳥取城の山上ノ丸は、山頂部を数段に切り開いて構築し、その中央部の一段高い場所にあたるこの地が本丸である。本丸には、天守櫓の他、著見櫓・多聞櫓、それをつなぐ走櫓などの建物があり、御天守奉行がこれを守っていた。本丸の中央部には、池田長吉の改築の時掘ったといわれる車井戸がある。
※現地看板より

車井戸
池田長吉が慶長7年(1602)から行った城内大改築の時に掘った井戸と伝えられています。
※現地看板より

天守櫓跡


鳥取砂丘






天球丸の巻石垣(復元)
亀の甲羅状の石垣は、設置された箇所の石垣が、文化4(1807)年頃に崩れそうになり、それを防ぐ目的で築かれました。角を持たない形から、巻石垣とも言われ、川の護岸や港の突提に関わりのある職人が築いたとされます。こうした石垣が、城に用いられる事例は、鳥取城以外に無く、貴重であることから、絵図などをもとに復元しました。
※現地看板より

鳥取県立博物館
日本100名城スタンプ設置場所

西坂下御門跡

仁風閣
※仁風閣は2023年12月29日より長期休館中。(約5年間)
この建物は、明治40年5月、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し、ご宿舎として、もと鳥取藩主池田仲博公爵によって、扇御殿跡に建てられた。設計は明治建築最高の傑作である赤坂離宮の設計者として有名な宮廷建築家片山東熊博士によるものと伝えられ、

工部大学校での片山東熊の後輩にあたる鳥取市出身の建築家橋本平蔵が補佐し、地元の工匠浜田芳蔵が施工にあたったものであり、フレンチルネッサンス様式を基調とする木造二階建の本格的洋風建築で、中国地方屈指の明治建築として著名である。櫛形ペディメントを主要なモチーフにした端正な正面のたたずまいに、屋上の棟飾りや階段室の八角尖塔屋根が変化を与え、背面一・二階吹抜けのベランダは、軽快で美しい構成を示している。

内部は御座所・謁見所・御食堂の主要室をはじめとして、1・2階の各室とも室内装飾に意が払われ、マントルピース(暖炉飾り)・カーテンボックス・シャンデリアなどの細部意匠にも見るべきものが多い。殿下ご到着の当日に、鳥取県下ではじめて電灯が灯されるなど明治の文明開化を華々しくうたいあげた記念建築でもある。「仁風閣」の名は、行啓に随行した東郷平八郎元帥によって命名されたもので、その直筆の額は、二階ホールに現在も掲げられている。
※現地看板より

御食堂

らせん階段


御厠


遠景


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