城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | クロイジョウ |
| 別称 | 保月城、保築城 |
| スタンプ設置場所 | 春日住民センター 08:30-22:00 |
| 曲輪配置 | 連郭式 |
| 城郭種類 | 山城 |
| 築城者 | 赤松貞範 |
| 築城年 | 建武年間 |
| 廃城年 | 1584年 |
| 主な城主 | 赤松氏、赤井氏、斎藤氏、堀尾氏、川勝氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 356.5 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 史跡黒井城跡 |
| 駐車場 | 黒井城跡 無料駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 黒井駅 |


概要・現地案内板
高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年の中国の主戦場となった城跡として有名である。
城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城」である。
城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのがわれる。
縄張りは、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模のこの丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。
本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場

三の丸跡
三の丸は、城の南口の要所にあたり、川舟を並べて舟橋をかけ城外と結ばれていたと伝えられる。発掘調査では、堀や井戸などが見つかった。
※現地看板より

水攻図案内盤



二の丸跡
この丸は、本丸と三の丸の間に位置し、本丸とほぼ同規模の郭であるとみられる。発掘調査をされていないため建物などの詳細は不明である。
※現地看板より

備中高松城址資料館

中国役とは・・
全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境目七城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。織田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正10年に三万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。最後に、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、

折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。籠城1ヶ月を経て城兵が飢に陥ったころ、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。築堤跡は蛙ヶ鼻に現在も一部残存している。※現地三の丸にある看板より

高松城懐古



宗治蓮
昭和57年に岡山市が歴史公園造成計画によって沼の復元をいたしました。古来、本丸と二の丸の間(この地)に蓮池の地名が残されており、沼の復元によって自然に生えたものであります。

星霜400年、地下に眠っていた蓮が、再び、立派な花をつけ、城跡を訪れる方々の目を楽しませてくれることは、歴史の中のロマンがあり、水に守られ、水に散った城主・清水宗治公と蓮池との関連を追憶して去り難き感に打たれるものがあります。
※現地看板より

本丸跡
天正10年(1582)の戦いの後も城は改修をうけながら維持され、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後は徳川氏の旗本が本丸に陣屋を構えた。
※現地看板より



清水宗治辞世の句石碑

清水長左衛門尉宗治公首塚



高松城水攻略史
今から約400年前の天正10年1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、3万の大軍をもって備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城の城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。

高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で、水面との比高がわずか4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻めを断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九右衛門勝則を奉行とし、3千mに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188ヘクタールの大湖水ができ、城は孤立した。6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。

秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国寺恵瓊を招き『今日中に和を結べば毛利から領土はとらない、宗治の首級だけで城兵の命は助ける』という条件で宗治を説かした。宗治は『主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する』と自刃を承諾した。
時に6月4日巳の刻(午前10時)湖上に船を漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願寺の曲舞を舞い、『浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して』と辞世の歌を残して46歳を一期として見事自刃した。※現地看板より

文英石仏






清水宗治公自刃の地入口

2024/12最終訪問
御城印

城郭周辺地図
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