城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | フナオカジョウ |
| 別称 | 芝田城、柴田城、船岡要害、四保館 |
| スタンプ設置場所 | - |
| 曲輪配置 | - |
| 城郭種類 | 山城 |
| 築城者 | 芝田次郎 |
| 築城年 | 平安時代 |
| 廃城年 | 不明 |
| 主な城主 | 四保氏、原田氏、柴田氏 |
| 指定史跡 | 町指定 |
| 標高 | 135.4 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | 土塁、空堀、井戸 |
| 現状 | 船岡城址公園 |
| 駐車場 | 船岡城址公園駐車場 しばたの郷土館前駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 船岡 |

概要・現地案内板
ここ船岡の地は、江戸時代の初め頃(慶長初期 1600年頃)までは四保村とよばれ、領主四保氏の居館四保館のあったこの舘山も四保山であった。
四保山は、奥州街道と白石川を挟むかたちで韮神山と対峙し、軍事上の要衝だった。この丘陵上に築かれた四保館は、沼や堀・川に峻険な地勢と相まって、天然の要塞というべき山城である。
鎌倉時代に、この地域を治めた一族は、御家人小山氏の一族だったが、この地名を採り四保氏を名乗ったとされる。
16世紀の初め、柴田家の祖 四保但馬定朝がここに住み、二代宗義の時、四保姓を柴田に改めた。柴田氏は、文禄2年(1593)、志田郡桑折(大崎市三本木桑折)に所替えとなる。
その後、船岡の地は、伊達政宗の家臣屋代勘解由兵衛景頼の所領となる。屋代氏は二の丸に住んだが、慶長12年(1607)に改易となった。
この地に、原田氏(甲斐宗資、甲斐宗輔の父)が桃生郡大瓜(石巻市大瓜)から移封されたのは元和元年(1615)のことである。
原田氏は山上には屋敷を設けず、
家中屋敷に二屋敷分を取り居屋敷とした。しばたの郷土館のあたりであったと考えられる。しかし、寛文11年(1671)3月27日に起きた寛文事件(伊達騒動)により、原田家は改易となる。
その後天和元年(1681)に、寛文事件の波及を身を挺して留め落命した柴田外記朝意の子中務宗意が、登米郡米谷(登米市東和町米谷)から再び船岡に戻った。元禄7年(1694)、
7代宗僚のとき「三ノ丸」に居屋敷を築造し、以来170余年を経て明治維新を迎えることになった。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
大手門跡


みだれ坂
柴田家の居館に上がるには、お堀にかかる橋を渡り、「大手門」をくぐり、坂を登り、登りきったところにある「詰の門」から「三の丸」に入ったと伝えられています。この坂道は、「みだれ坂」とよばれています。約11度の斜度で、南へ約50メートル登ったところで、くの字形に曲がり、今度は北へ約45メートル登ります。

くの字形に折れ曲がるこの場所に、60平方メートルほどの平場があります。道幅は8~10メートルと、意外なほど幅広く見事なものです。「詰の門」は、明治になり、柴田家の菩提寺である大光寺の山門に移築されましたが、大正7年の大火によって焼失しました。
※現地看板より

スロープカーのりば

三の丸跡
寛文11年(1671)、大老酒井雅樂頭邸で、原田甲斐宗輔による刃傷事件(寛文事件)が起こりました。事件の拡大を最小限に留めた功労者とされた柴田外記朝意の嗣子中務宗意(6代)が、天和元年(1681)登米市東和町米谷から船岡へ移封されました。当時は、原田氏と同じように家中屋敷内に二屋敷を居屋敷としていました。

元禄7年(1694)、7代宗僚のとき幕府老中より船岡要害屋敷普請の許可が下り、三の丸のこの屋敷が明治維新まで柴田家の居屋敷となりました。三ノ丸は、「仙台領古城書立之覚」によると方70間としていますが、実測では、東西155メートル、南北95メートルの矩形 であります。明治2年の春、建物の一切が焼失しました。現在は大手門から詰の門に至る「く」の字の坂(みだれ坂)と三ノ丸西側に残る土塁、屋内にあったとおもわれている城中井戸が当時の面影を伝えています。
※現地看板より

城中井戸
船岡要害三の丸、柴田家の居館(屋敷)内で使われていたという井戸(城中井戸とよばれた)である。昭和58年、柴田町出身の直木賞作家大池唯雄の詩「城中井戸」の碑が、船出会有志により建立されました。井戸の覆い石板に左・柴田家の「右二つ巴」、右・伊達宗家から賜った「丸に立て三つ両引き」の家紋が刻まれています。
※現地看板より

馬場跡

船岡館跡・舟岡要害跡
船岡館跡は、四保山や館山と呼ばれる丘陵上の中世城館の遺構である。北を流れる白石川と、かつて周囲に点在していた湖沼といった自然地形を利用した典型的な山城であり、江戸時代にも舟岡要害として利用されていた。この城館がいつから営まれたかは不明だが、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、鎌倉時代のはじめ芝田次郎が幕府に背いたことから、宮城四郎が「芝田館」を攻め滅ぼしたとの記事がある。

天文年間(1532~1555)四保但馬定朝が居城したとされている。なお、二代宗義の時に柴田姓に改めた。文禄2年(1593)に柴田氏が所替えとなった後、船岡の地は伊達政宗の重臣であった屋代勘解由兵衛景頼の所領となり、二の丸に居住した。次いで元和年間(1615~1624)に原田甲斐宗資が船岡に転封され、ふもとの家中屋敷に住んだ。寛文11年(1671)に酒井邸での刃傷事件により原田甲斐宗輔および一族が亡ぶと、天和元年(1681)に柴田外記朝意の子、宗意(6代)が船岡に転封され、再び柴田氏が船岡の領主となった。

柴田家の屋敷は、はじめ家中屋敷の区域にあったが、元禄7年(1694)に7代宗僚が幕府に屋敷の普請を申請し、三の丸を整備し、柴田家は明治維新まで居住した。三の丸の建物は明治はじめ頃の火災によって焼失したが、敷地北西部の土塁や、城中井戸などが現存する。この説明板の立つ場所は、舟岡要害の詰の門があった付近である。この詰の門とふもとの大手門とを結ぶ「く」の字に折れる坂道は「みだれ坂」と呼ばれ、今も当時のおもかげをとどめている。
※現地説明板より

飯淵翁頌徳碑
長生の家にこそ
老せぬ門はあるなるに
是も年ふる山ずみ乃
千代のためしを
松蔭乃
岩井の水は薬にて
老をのべたる心こそ
猶行末もひさしけれ
なほ行すえも久しけれ

船岡城址公園案内図

今回は三の丸までの紹介となります。二の丸、本丸はまたの機会に・・・。
2024/7最終訪問
城郭周辺地図
宮城県柴田町大字船岡
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