概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
柴田城は、福岡県筑紫野市大字天山字日焼に所在する戦国時代の平山城(居館兼丘陵城郭)跡である。宮地岳(標高338.9m)の南西麓、宝満川に面した標高約51メートル(比高約15〜20メートル)の独立丘陵上に占地する。最高所の主郭(1郭)は平坦に造成され、中央部に土壇・塚が盛られている。東側から主郭へ登るつづら折れの導入路沿いには土塁が添えられ、主郭から南西側尾根にかけては雛壇状に細長い階段状曲輪群が連続して麓付近まで展開する。筑紫野市の埋蔵文化財包蔵地台帳に中世城館遺跡として登載されており、発掘調査(柴田城・峯畑遺跡調査等)でも遺構・遺物が確認されている。平時は居館的性格を帯びつつ有事の防衛拠点として機能した縄張りを良好にとどめている。
歴史的役割
当地の有力国人・筑紫広門に代表される筑紫氏の支城・前線拠点として戦国期に機能したと伝えられる。城主としては筑紫氏の家臣である村山近江、その子・村山弾正が在城したとされる。城下の柴田川・宝満川流域は筑前と筑後・肥前・豊後を結ぶ交通結節点であり、大友氏方と秋月氏・島津氏方による勢力争奪の最前線として「柴田川の合戦」をはじめとする数々の局地戦が繰り広げられた。天正14年(1586年)の島津軍による筑前侵攻(勝尾城攻防戦・岩屋城の戦い)に伴い、筑紫氏の本拠である勝尾城周辺の支城網とともに戦禍に巻き込まれ、同年の九州戦乱やその後の豊臣秀吉による九州国割替の過程で役目を終えて廃城となった。
見どころ
独立丘陵上に雛壇状に連続展開する階段状曲輪群と切岸地形、主郭(1郭)中央部に残る土壇(塚)、東側登城道沿いに遺存する土塁痕跡、城跡周辺道路に設置された案内誘導表示、宝満川流域の平野部や宮地岳を望む丘陵頂部からの展望
ご当地グルメ
太宰府梅ヶ枝餅、二日市温泉通り名物ちゃんぽん、博多ラーメン、筑紫野の地酒、水炊き
入口
戦国時代(1467年~1584年)末期の1578年は、筑紫広門氏の端城で、その家臣、村山近江守の子 弾正の城であった。
※現地看板より


主郭




腰曲輪

堀と土塁

横堀














