城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | ハラジョウ |
| 別称 | 日暮城、春城、志自岐原城、日暮城、有馬城 |
| スタンプ設置場所 | 有馬キリシタン遺産記念館 09:00-17:00 |
| 曲輪配置 | 梯郭式 |
| 城郭種類 | 平山城 |
| 築城者 | 有馬貴純 |
| 築城年 | 1496年 |
| 廃城年 | 1616年 |
| 主な城主 | 有馬氏 |
| 指定史跡 | 世界遺産 |
| 標高 | 31.1 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | あり |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 世界遺産 原城跡 |
| 駐車場 | 原城跡大手口駐車場 |
| 最寄り駅 | 長崎鉄道バス 原城前 |

概要・現地案内板
原城は慶長4~9年(1599-1604)頃に、キリシタン大名の有馬晴信(1567-1612)によって築かれた城郭とされています。
宣教師の記録によると、有馬氏本城の日野江城が手狭で戦闘に不向きであったため、 新たに巨大で堅固な原城が築城されました。
城は有明海に突き出す丘全体を縄張りとし、 本丸をはじめ二の丸、三の丸、鳩山出丸、天草丸などの曲輪があります。
本丸は石垣造りで、直線的な稜線の曲輪となっています。
一方、他は自然地形を活かした土造りの曲輪が並立的に配置されるなど、 中世城郭の名残りがある構造となっています。
元和2年(1616) 、 大和五条より入封した松倉重政が居城を島原に移したため、 原城と日野江城は廃城となりました。
寛永14年~15年(1637-1638) の島原・天草一揆では、 度重なる飢饉や領主の弾圧に堪えかね、2万を越える農民が蜂起し、 最終的に廃城になっていた原城に籠城しました。
一揆勢のほとんどがキリシタンでした。
一揆4ヶ月の長期戦となりましたが、兵糧攻めの末、 寛永十五年(1638)二月末の幕府軍の総攻撃により、鎮圧されました。
一揆以降、 ポルトガル船の来航禁止、 宗門改帳の作成が実施されるなど、 海禁(鎖国)政策 や キリシタン禁制 および領民の統制が強化されていきました。
原城を主戦場としたこの戦いは、幕府の支配 政策に影響を与える大きな出来事でした。
※現地説明板より
城犬のおいど 攻城記録
大手口
この付近は原城の大手口です。大手とは城の正面あるいは正門にあたる部分であり、三ノ丸の東側に、海に面して大手口が設けられていました。絵図史料にみられる大手の出入口の形状は、城内にいったん進入した後に直角に折れ曲がる内枡形虎口と呼ばれるものでした。

原城の大手は、有馬氏の本城であった北方の日野江城方面に向いていることから「日上口」、「樋上口」などの字をあて、「ひのえぐち」とも呼ばれていました。この説明板の後方で行った発掘調査では、通路の一部と思われる玉石敷きや、大量の石で通路が埋められた状況を確認しました。また銃弾や人骨片などもみられ、大手付近で行われた戦闘の一端を物語っています。
※現地説明板より


三の丸跡
この一帯は原城の中で最も北側に位置する三ノ丸跡です。 自然地形を活かした中世的な土造りの構造の曲輪であり、範囲は約6㎡と広大です。 三ノ丸の東側には、原城の正面口にあたる大手が設けられていました。島原・天草一揆の際には、深江村、富津村、堂崎村、有馬村などの一揆勢によって守備されました。
※現地説明板より






世界遺産
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」 は、 キリスト教禁教 による宣教師不在の中、神道や仏教などの日本の伝統的宗教や一般 社会と関わりながら信仰を続けた潜伏キリシタンの伝統のあかしと なる遺産群である。

それらは、国内に宣教師が不在となってキリシタンが「潜伏」したきっかけや、信仰の実践と共同体の維持のためにひそかに行った様々な試み、そして宣教師との接触により転機を迎え、「潜伏」が終わりを迎えるまでの歴史を物語る12の構成資産からなる。これらが長崎と天草地方の半島や離島に点在しているのは、大航海時代にキリスト教が伝わったアジアの東端にあたる日本列島の中で、最も集中的に宣教が行われた場所だからである。
※現地説明板より

二の丸跡
この一帯は原城のほぼ中央に位置するニノ丸跡です。自然地形を活かした中世的な土造りの構造の曲輪であり、面積は8万m余りと原城の中で最も広大な曲輪です。ニノ丸の北西部分は出丸となっており、島原・天草一揆の際には出丸の先端付近が、一揆勢の夜襲や幕府軍の総攻の起点となるなど、戦いの最前線となりました。
※現地説明板より



空堀跡
前方にある谷状の地形は本丸の守りを固めるために造られた空堀の跡です。築城より400年以上の歳月が経過し、自然崩落などにより大きく広がっていますが、 一揆の様子を描いた絵図史料には、縦5間(10m弱)横20間(39m余り)と記したものがみられます。また空堀内部に小屋が立ち並ぶ様子を描いた絵図史料もあり、 空堀の底にも一揆勢が所狭しに駐留したと考えられます。
※現地説明板より

蓮池跡

原城跡総合案内所

本丸跡
ここは原城の本丸跡です。本丸とは城郭の中枢となる最も重要な場所です。本丸の曲輪は約8千㎡と広大であり、さらに城の西北側には本丸の守りを固めるため、枡形が連続する複雑で巨大な出入口(虎口)の空間が備えられていました。出入口の空間には本丸正門や本丸門など礎石建物を伴う門があります。また本丸の西側には櫓台があり、東側には搦手である池尻口門などがあります。

原城本丸は島原・天草一揆の際、総大将の天草四郎など指導者層が立て籠もり、最後まで籠城戦が行われた場所でもあります。一揆後は再び籠城の拠点とならないよう、幕府軍によって建物や石垣が徹底的に破壊され、地中に埋め尽くされていました。本丸の調査では戦いの凄惨さや一揆勢の信仰心を物語るよう、多くの傷ついた人骨や、十字架・メダイ・ロザリオ珠などの信心具も出土しました。
※現地説明板より

骨カミ地蔵
島原・天草一揆の終結(1638)より130年ほど後の明和3年(1766)、北有馬村願心寺の住職注誉上人と南有馬村の庄屋乙名らが、原城跡に残されていた遺骨を敵味方の区別なく拾い集め、供養した地蔵塔です。石碑の正面には「三界万霊乃至平等 南無阿弥陀仏 骨塔 明和三戌七月十五日」とあり、側面には願主の名前が刻まれています。
※現地説明板より

本丸正門跡

桝形虎口跡

埋門跡
原城本丸に入って中程に位置する2つ目の門跡です。文字史料には「埋門」と記されています。一揆の後、幕府軍によって壊され、埋められていましたが、発掘調査で土砂や壊された石垣の石材を取り除いていくと、本来の石垣や階段、水路の跡などが確認されました。この地点では城の壊された工程がわかるよう、三段階で示しています。
※現地説明板より



本丸門跡
原城本丸へと繋がる最後の門です。
入口の空間へ入ると建物の基礎となる礎石が並んでおり、櫓門が建てられていたと考えられます。櫓門を抜けるとその先に階段が設けられており、城内へ続いています。他の門跡と同様に一揆後に破壊され、礎石の一部がなくなっており、階段の踏石はわずかしか残っていません。
※現地説明板より

破却された石垣
この場所は石垣の内隅部にあたります。内隅とは石垣が内側に入り込んだ隅角のことです。ここでは島原・天草一揆後に破壊された状態を展示しています。右図(説明板写真)の赤い線に沿って原城本来の石垣が残っており、その前面に崩された石垣の石材がつみ重なっています。

なお、この前方にある石垣(右図・青線の箇所)は内隅が壊された後、耕地整理によって築かれたもので、天保7年(1836)の絵図にはすでに描かれています。
※現地説明板より



櫓台跡(天守台跡)
ここでは発掘調査によって大きく張り出した石垣の跡が発見されました。調査時には石垣の上部や隅が大きく破壊され、土砂や石垣の石材で埋め尽くされていました。宣教師が残した報告書には三層の櫓が建てられていたことが記されており、築城された時にはこの場所に天守相当の建物があったと推定しています。
※現地説明板より

鳩山出丸跡







城址碑

天草四郎像

佐分利九之丞の墓
佐分利九之丞(1578-1638)は、鳥取藩池田家の家臣で島原・天草一揆の時に使者として息子の成次、成興らと共に有馬の地に来た人物です。寛永15年(1638)2月27日の幕府軍の総攻撃の時に討たれ、死の直前、そばにあった石に自分の名と日付を刻んだと伝えられています。

佐賀鍋島家の記録に「池田家の使者佐分利九之丞廿七日本丸の城戸にて討死す」とあり、この付近で亡くなったと考えられます。「本丸之内に佐分利九之丞と書く付ある石塔これあり」と記した延宝2年(1674)の古絵図も残っており、その頃より石碑が本丸にあったことがわかります。
※現地説明板より

天草四郎時貞の墓碑
この碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものです。天草四郎 小西行長の家臣、益田甚兵衛の子で、本名増田四郎時貞といい洗礼をうけてジェロニモと称し、籠城中に書いた「四郎法度書」にはフランシスコと署名しています。恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強しているとありますが、詳細は不明です。

島原・天草一揆に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。一揆軍は88日間この原城に籠城しましたが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。
※現地説明板より


池尻口門跡
原城本丸に入る三ヶ所の門のひとつで、発掘調査で門と思われる礎石やその両側の石垣、階段などが発見されています。 他の門跡と同様、島原・天草一揆の後に幕府軍に破壊され、埋め尽くされていました。 破壊の激しさを示すよう階段の踏石には抜け落ちが目立ち、石垣は最大でも1.7m程の高さしか残っていません。

特に石垣の隅角は、両側とも根石1石のみが残る状況です。
※現地説明板より




石垣の破却
原城跡の石垣は、島原・天草一揆の終結後、幕府軍により隅や上部を中心として徹底した破壊を受けました。単に石垣を突き崩すのみでは、すぐに築石を前方へ引きずり出し、再び石垣を突き崩すといった作業が繰り返されました。破壊された石垣は、背後の櫟と土砂によって埋め尽される徹底ぶりでした。また、原城の石垣の下からは一揆勢の亡骸も数多く発見されました。

その様子は「一国一城令」による城の破却とは大きく異なり、幕府に抵抗した一揆勢の怨念を断ち切り、城の機能を徹底的に壊して廃城とし、原城がふたたび一揆の拠点となることを防止する意図があったことがうかがえます。島原・天草一揆が幕府に与えた衝撃の大きさ物語っています。
※現地説明板より

南島原市観光案内

天草丸跡
天草丸は原城の南端に位置する曲輪です。原城の曲輪の中では最も小規模で、北東から南西方向に延びる細長い形状の曲輪となっています。一揆の際には天草、小浜村、串山村などの約4千名が守備したため、天草丸と呼ばれました。このほか松山丸とも呼ばれていたようです。

寛永15年(1638)、2月末の幕府軍の総攻撃では黒田勢などに激しく攻め込まれ、陥落したと伝えられます。
※現地説明板より



田町御門跡

板倉重昌の碑
板倉重昌(1588-1638)は、かつて深溝藩(愛知県三河地方)の藩主であった人物です。島原・天草一揆(1637-1638)が起こった際には、幕府の第一次上使として派遣され、幕府方連合軍の総大将を務めました。寛永15年(1638)元日に3度目の原城総攻撃をかけ、自らも突入しましたが、一揆勢の抗戦にあい51歳で戦死を遂げました。

この碑は、重昌を偲んだ孫の重道の依頼により、延宝9年(1681)に制作されたものです。碑文は、その気高い人物像や功績を讃え、戦死に至った状況も記しながら、重昌を悼んでいます。しかしこの時、碑の建立には至らず、重昌の死後159年目にあたる寛政9年(1797)、子孫の板倉勝長らによって、原城内で重昌が戦死したとされる場所に建立されました。
※現地説明板より

有馬豊氏仕寄跡

有馬キリシタン遺産記念館

スタンプ設置場所
続日本百名城スタンプ設置場所



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