概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 連結式 | 天守形式 | 層塔型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | あり(模擬天守・復興辰巳櫓) |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | あり(塀復元) |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:肥前名護屋城門伝承・唐津城門伝承、先:市内寺院等) |
| 遺構 | 水堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
スタンプ設置場所(185番)
赤色立体地図・微地形判読
※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。
概要
唐津城(からつじょう)は、佐賀県唐津市東城内に所在する松浦川が唐津湾に注ぐ河口の独立丘陵・満島山(標高約43メートル)頂部に築かれた肥前唐津藩6万石余の本拠たる近世平山水城跡である。「舞鶴城」とも称され、唐津市指定史跡、続日本100名城(181番)に選定。豊臣秀吉の側近・寺沢広高が慶長7年から築城を開始し、慶長13年に完成させた。本丸を中心に二の丸、三の丸を南西の平野部に配する梯郭式縄張を持つ。北面と東面を玄界灘(唐津湾)と松浦川の河口に面した天然の海城要塞であり、左右に広がる虹ノ松原と西の浜が鶴の翼を広げた姿に見えることから舞鶴城と親しまれる。築城に際しては解体された肥前名護屋城の木材や石垣石材が大量に転用された。本丸を取り巻く打込接ぎ・野面積みの壮大な高石垣や二の丸水堀が良好に残る。昭和41年に五層五階の模擬天守が鉄筋コンクリート造で建てられ、藤の名所としても全国的に著名である。
歴史的役割
唐津湾の海上交通および玄界灘の対外貿易・沿岸防備を掌握する北九州の重要軍事・行政拠点として機能した。築城者の寺沢広高は名護屋城普請の功績を認められ唐津を領し、城下町整備や松原の植林(虹ノ松原防風林)を断行した。しかし2代堅高の代に領地の肥後天草で島原・天草の一揆(島原の乱)が勃発し、失政を問われて天草領を没収され堅高は自刃、寺沢家は改易となった。以後は大久保氏、大給松平氏、土井氏、水野氏と幕府重臣の譜代大名が頻繁に入封。文化14年(1817年)には老中として天保の改革を主導した名宰相・水野忠邦が幕政参画のため浜松藩へ転封を志願し、替わって信濃松本から小笠原長昌が入封。幕末まで小笠原氏が統治した。幕末の戊辰戦争では新政府軍に従順し城郭の戦火を免れたが、明治の廃城令により建造物は解体された。海城の立地特性と近世大名統治の変遷を如実に示す。
見どころ
満島山の海側・川側を幾重にも取り囲む慶長初期の堅牢な「本丸野面積み・打込接ぎ高石垣群」、本丸東端にそびえ玄界灘の絶景を望む五層五階の展望施設「復興天守(模擬天守)」および「辰巳櫓」、城下町と城郭を隔てて今も豊かな水を湛える二の丸・三の丸の「水堀」遺構、天守台から見晴らす虹ノ松原(国指定特別名勝)・唐津湾の島々(高島・鳥島)・松浦川の360度大パノラマ、本丸広場に枝を広げ春に見事な紫の花房を垂らす樹齢100年を超える「唐津城のフジ(紫藤)」、名護屋城からの資材移築伝承を残す石垣や城下町遺構、天守閣内部に展示された唐津焼や唐津藩政資料(続日本100名城スタンプ設置)、唐津市指定史跡碑・案内板
ご当地グルメ
概要・現地案内板
唐津城は慶長13年(1608年)に完成した平山城です。
城を築いた寺沢志摩守広高は豊臣秀吉の側近で、築城には名護屋城の解体資材を用いたといわれています。
城は本丸・二ノ丸・三ノ丸・外曲輪に分かれ、本丸には天守台、二ノ丸には藩主の住居と藩庁があり、三ノ丸にはほとんどの藩士が住み、外曲輪には町人が居住し町奉行所がおかれていました。
城には寺沢氏似後は代々譜代の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入城しました。
寺沢氏の12万3千石てはしまり、廃藩前は6万石でした。
明治10年から本丸跡は現在の舞鶴公園として一般に開放され、藩主の住居は高校敷地となっています。
周囲約1キロ、面積4.3ヘクタール、海抜43メートルにそびえる現在の唐津城天守閣は天守台跡に慶長様式で、文化観光施設として昭和41年に完成したものです。
天守閣は五層五階、地下一階で博物館、展望所等があり、展望所からは、松浦潟の全景が一望におさめられます。
また唐津城は別名舞鶴城ともいわれ、観光唐津のシンボルとして皆様に親しまれております。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
東城内駐車場

唐津城下迷宮地図

登城口

多宝塔
築城以前は、松浦川町田川の水害救難の津守として寺社が集っていました、その一つに海仙寺という二がありその製作によるものと伝えられる多宝塔であります。現在は塔身のみが残り、屋根石相輪等は失われています。
※現地看板より


エレベーター

券売機
一般(片道)100円
小中学生(片道)50円
未就学児・70歳以上
障がい者 無料

このエレベーターは斜めに動きます。

エレベーターのりば
エレベーターから降りると、本丸です。

亀頭櫓

展望広場


城址碑

化粧櫓

旗竿石
名護屋城並びに陣跡で発見される、上面に径20~30㎝の円形で深さ20㎝の穴が穿たれた大型の玄武岩自然櫟(唐津石)と呼ばれていました。現在、約60個の「旗竿石」が名護屋城並びに陣跡や持ちだされた周辺地で確認されています。

この旗竿石は、名護屋の鍋島陣跡にあったものが、名護屋城内に移設され、その後、唐津城に運ばれたと伝えられるものです。現在、「旗竿石」の、上面に穿たれた穴は「水穴」であり、茶室及び庭園空間に置かれた「手水鉢(石)」と考えられています。名護屋陣での茶会の様子を示す貴重な歴史資料となるものです。
※現地看板より

天守入口




虹の松原

スタンプ設置場所
続日本百名城スタンプ設置場所

南蛮大砲
この南蛮大砲は、昔から唐津城の天守台にあったそうです。しかし、「なぜ、この大砲は唐津城に存在するのか?」その来歴は謎に包まれています。一説には、江戸時代、鎖国された後の正保元年(1644)に唐津湾で唐津藩と黒田藩に焼き討ちされ沈んだ黒船(異国船)が積んでいた大砲だったと言われていましたが、現在は、この事件は実際にはなかったと考えられています。

しかし、近年、大砲の刻印が「ドラゴンの紋章」と判明し、そこから、この大砲がイギリスで製造されたことがわかりました。その製造時期から大坂の陣~島原の乱の頃、初代唐津藩主寺沢広高の時代に輸入された大砲である可能性も考えられます。
※現地説明板より

休憩所

西門




金刀比羅神社

井戸


二の曲輪

本丸櫓門

藤棚



総締門跡





城内橋

船入門
唐津城の船入門は、藩主の参勤交代の際の出入、御蔵への納入物品の出入に利用されました。現在は、当時の船入部分は埋め立てられており、一部川沿いに西側角台の石垣が見られますが、東側や奥の石垣面は埋め立てや道路となり、確認できません。船入門は唐津湾の湾口に築城された唐津城の遺構名称を残す数少ない場所の一つであり、この地の名称を残し船入門公園として整備しました。
※現地説明板より

ライトアップ


2026/1最終訪問
