城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | ナゴヤジョウ |
| 別称 | 名護屋御旅館、名護屋御殿 |
| スタンプ設置場所 | 名護屋城博物館 09:00-17:00 |
| 曲輪配置 | 渦郭式 |
| 城郭種類 | 平山城 |
| 築城者 | 豊臣秀吉 |
| 築城年 | 1591年 |
| 廃城年 | 1598年 |
| 主な城主 | 豊臣氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 88.0 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 史跡名護屋城跡 |
| 駐車場 | 名護屋城駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 西唐津駅 |


概要・現地案内板
名護屋城は豊臣秀吉が文禄・慶長の役(1592~98)に際し、出兵の拠点として築いた総石垣の城です。
黒田官兵衛(如水)の縄張り(設計)で黒田長政、加藤清正、小西行長ら(一説には毛利輝元も)が普請奉行となり、天正19年(1591)10月から築城を開始し、諸大名による割普請によって5か月で築かれたといわれています。
天守台や本丸を中心に、二ノ丸、三ノ丸、遊撃丸、水手曲輪、東出丸、(伝)馬場、弾正丸、山里丸、台所丸と鯱鋒池と呼ばれる堀が配置され、当時としては大坂城に次ぐ全国2番目の広さを誇りました。
秀吉はこの城に1年余り滞在し、諸大名の多くもこの名護屋の地に参陣しました。
そこには、人口20万人を超える世界有数の大都市が形成され、能や茶の湯など桃山文化も栄えました。
一時的に政治・経済・文化の中心となったこの地は、さながら日本の首都のような賑わいだったのです。
文禄・慶長の役後は、唐津の領主寺沢広高が名護屋城を管理し、唐津城築城に際し建物は唐津城下に移築されたといわれ、その後石垣は破却されました(破却の時期は一国一城令(1615)や天草・島原の乱(1637~38)の説があります)。
現在は特別史跡に指定され、発掘調査や史跡整備を行っています。
※現地解説版より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場


大手口前井戸
この井戸は、東側に隣接する石敷遺構と南東方向に延びる2本の石組溝遺構を伴っています。これは隣接する駐車場建設のための事前発掘調査で見つかりました。城内にはこの他6箇所の井戸が残っています。井戸の深さは約1.6mと浅いものの、地下水脈に重なっているのか、調査後しばらくは水がわきだしていました。

この井戸から、朝鮮通宝や石臼、曲げ物などが見つかり、当時の生活を探る手がかりとなりました。
※現地説明板より


観光案内所

大手曲輪

旗竿石
この石は、文禄・慶長の役に際して名護屋城周辺に滞在した諸大名の陣屋に、軍旗や馬印などを立てるために、玄武岩質の自然石でつくられた「旗竿石」と呼ばれるものです。昭和15年頃、名護屋村から唐津市坊主町の民家に移設され、再び、鎮西町名護屋の地にもどされたものです。中央に直径26.5㎝・深さ12㎝の円形の穴が穿ってあります。
※現地説明板より

城址碑

大手口
城の正面入口といわれており、ここから南に向かって唐津に通じる「太閤道」と呼ぶ道がのびています。平成4年度の発掘調査で、櫓台下の東側広場から掘立柱跡が見つかりました。また前面の石垣からは、石垣改築の跡を見つけることができました。

同年、櫓台を中心に崩壊危険個所の石垣修理を行い、あわせて遺構保護をかねた、広場の植栽を行いました。
※現地説明板より

大手道


東出丸
東方に張り出した長方形の曲輪で、”千人桝”とも呼ばれています。大手口・三の丸警固のための侍詰所があったと推定されます。昭和63年度(1988)の発掘調査で、門基礎・玉砂利敷・石段が新たに発見されました。現在は、曲輪内部は、盛土・芝張でこれらの遺構を保護しています。

櫓台と内側・外側の石垣危険個所については平成2年度(1990)に緊急修理を実施し、併せて、大手口から東出丸への仮園路を整備しました。
※現地説明板より

櫓台

三の丸
本丸より一段低いところに位置する東西34間(68m)、南北62間(124m)の曲輪です。現況では玉砂利敷や礎石と考えられる石が認められます。また、城内の高台では唯一の井戸跡が残っています。肥前名護屋城図屏風には殿舎や公家風の人物が描かれ、当時の三ノ丸の様子が窺えます。

大手口から本丸に通じる重要な曲輪で、本丸周辺を警固する侍が詰めていた場所と考えられます。平成3年度(1991)に砕石を補充し仮園路の整備を実施しました。
※現地説明板より

三の丸井戸跡
名護屋城内では当時のものと考えられる井戸が各所で発見されていますが、三ノ丸の井戸はその中でも最も高所(標高76m)にあります。現在の深さは地面から2m程ですが、後の時代に埋められているため、当時どの程度の深さであったかは不明です。三ノ丸はそのほぼ全域が盛土であるため、かなり深いものと推定されます。

井戸は自然の割石を積み上げた石組みで造られていますが、その平面形は南北1.9m、東西1.3mの楕円形をなしており、名護屋城や陣跡で発見されたその他の井戸ではみられない特徴です。また、石組みに崩壊の危険性があったため、南西側の一部を解体修理したところ、井戸の石材は表に見えている大きさよりも2倍から3倍の奥行きがあり、さらに奥に向かって石尻を下げることで崩れにくく造られていました。

井戸は城にとって水の確保のために重要なものであり、城内では江戸時代以降のものも含め、多くの井戸がみられます。現在、その分布は城域の南東側(三ノ丸・大手口)、北東側(山里丸)、北側(水手曲輪・台所丸周辺)に限られますが、江戸時代後期の絵図では西側の二ノ丸にも井戸が描かれています。
※現地説明板より

三ノ丸南東隅櫓台
ここでは、発掘調査によって櫓台に伴う新旧二つの石段を発見しています。南側の石段(新石段)は調査前から見えていたものですが、北側の石段(旧石段)は、ほぼ完全に埋められていたものです。このうち、旧石段は登り口が現在の地面より1.2mも低いことから、両方の石段が同時期に存在していたのではなく、新旧の関係にあることがわかります。

また、新石段は櫓台のほぼ中央にありますが、旧石段は櫓台から北へ外れており、さらに登り上がったところが狭く歩きにくいことから、石段として実際に使用された可能性は低いようです。そのことから、名護屋城を築城した後に再び改造したというよりも、櫓台を最初に構築した後に再び改造したというよりも、櫓台を最初に構築していた途中で何らかの設計変更が行われ、石段が付け替えられたものと考えられます。

名護屋城内には、このような改造の跡が各所で発見されていますが、その理由としては「割普請」によって城造りを各大名に分担して行わせたことや、出兵に合わせ、築城を急いだことなどが推定されます。ここでは、名護屋城の特色である、大規模な改造の様子を実感できるように、旧石段を掘り下げて整備し、改造前と改造後の地面の高さの違いを表現しています。※現地説明板より

三の丸櫓台

本丸大手門跡
三ノ丸と本丸を結ぶ通路で、平成3年度からの発掘調査によって、大きな城門の礎石やL型に曲がった石段、石垣の上へあがる広い石段などの遺構や、門や櫓のものと思われる、大量の瓦などの遺物が見つかりました。さらに、ここは数度の改築が行われており、現在の形が一度にできたのではないということもわかりました。

平成5年度の石垣修理では、変化の最終時期を基本に、門礎石を加えて整備しました。
※現地説明板より

本丸跡

旧本丸石垣
旧石垣は、この箇所で小さく屈曲し、その方向が変化しています。一般的にこのような「折れ」は、敵を横から攻撃するために設けられたものです。石垣の上には塀が巡らされていましたが、この「折れ」の区域には小さな櫓が建てられていた可能性も考えられます。
※現地説明板より

本丸新石垣櫓台跡
ここでは、本丸の拡張に伴って新たに造られた櫓の跡を発見しました。この並んだ土台石の上に材木を横に置き、さらにその横木に柱を立てて建物を組み立てていたようです。馬場側の新石垣が破却のために壊されていますが、建物の大きさは東西・南北ともに約6m(3間)と考えられます。

また、櫓の周囲の通路部分には、玉石も敷かれていました。現在は、当時の玉石を保護するために埋め戻し、その上に復元した状態で整備を行っています。
※現地説明板より

本丸南西隅櫓跡

玉石敷の復元
多聞櫓東側の外周りでは、ほぼ全面で玉石敷が発見されています。玉石敷は櫓の外壁に近いところでは小さな玉石が、その外側には大きな玉石が敷かれていました。また、大小の玉石敷の境に石列を設け、これらを仕切っている箇所もみられました。小さな玉石敷は軒先からの雨落ちを受けるもので、大きな玉石敷は通路であったと考えられています。ここでは、瓦層に覆われて見ることができない玉石敷の様子を、実際の遺構上に復元しています。
※現地説明板より

ここでは、瓦層に覆われて見ることができない玉石敷の様子を、実際の遺構上に復元しています。
※現地説明板より


天守台跡
ここは名護屋城のシンボルである天守(閣)が建てられていた天守台です。肥前名護屋城図屏風(佐賀県重要文化財)には、五層七階建て(地上六階地下一階)の豪壮な建物が描かれており、その高さは石垣から約25~30mであったと推定されています。

発掘調査では、天守の基礎となる礎石(柱の土台石)と階段部分にあたる「穴藏」の石垣、「穴藏」への二ヶ所の出入口などが発見されています。礎石は16個が現存しているほか、礎石の抜き跡が6ヶ所で確認されており、不明の2個とあわせ、全部で24個の礎石が据えられていたと推定されています。このうち、中央部分には心柱を支えた90cm程の礎石が4個置かれ、さらに穴藏の内面石垣に沿って60~80㎝程の礎石が南北方向に7個、東西方向に5個並んでおり、

1階床下部分の梁を支える柱に伴うものと考えられます。なお、穴藏の床面は玉石を敷き並べた土間であったことがわかりました。天守は、江戸時代に入ってまもなく、この地が唐津藩に領有されるのに従い、「破却」を受け、天守台の石垣までも壊されたものと推定されます。江戸時代には、唐津藩によって古城を管理する「古城番」が城内に置かれますが、天守台の発掘調査でも城番所に伴うと考えられる造成面や石列が発見されています。
※現地説明板より


句碑
太閤が
睨みし海の
霞みかな
月斗

城址碑




水手曲輪


遊撃丸
文禄2年に明国から講和使節(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪といわれています。平成元年度と2年度(1989~1990)の石垣修理に伴う発掘調査で、門礎石・石段・玉砂利敷が新たに発見されました。特に船手門や天守台北側からは金箔瓦が出土しています。

遊撃丸や天守台の石垣は、自然石を半分に割り、割った面を表面に見せる”打ち込みはぎ”の石積が顕著です。石垣崩壊防止のため、危険個所では解体修理や新しい石の補充や植栽を行い、当時の石垣の様子が推定されるような整備をしています。
※現地説明板より


二ノ丸合坂
崩壊の危険性が高かった二ノ丸西側で調査を行い、解体修理の基礎資料としました。発掘調査の結果、延長110mの西側石垣において、「合坂(あいさか)」と呼ばれる相対する石段を3箇所で確認しました。これらの合坂は、遊撃丸と同様に城の西側の防御を重視した配置で、兵の移動を容易にしていたことが窺えます。

また、崩壊した石段の様子から、合坂は人為的にかつ徹底的に破却されていることがわかります。
※現地説明板より

二の丸長屋建物跡

馬場跡
本丸の南側にあたり、本丸との比高差は12mあり、築城時の高石垣が良く残っています。長さ100m、幅15mと細長く、また、ここで乗馬の訓練をしたとも伝えられ、二ノ丸から三ノ丸に至る重要な通路と考えられます。南側の石垣は櫓に通じる石段も残り、築城時の様子と崩壊した状況を同時に観察することができます。

しかし、樹木の繁茂や築城400年経過し、一部石垣が崩壊する危険性が高まったので、平成3年度(1991)に緊急修理を実施しました。石垣の上部は解体修理、下部については石垣の基礎部分を補強しました。
※現地説明板より

弾正丸跡

搦手口
前方の斜面は搦手口と呼ばれる、名護屋城に5つある虎口(城の出入口)のひとつです。搦手とは城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉です。城の守りを固めるために通路を屈折させた、典型的な喰違い虎口の形状をしており、櫓台下側では瓦敷排水溝跡が見つかりました。

現在は、ここ弾正丸東側とともに、平成3年度と4年度(1991~1992)に、石垣の緊急修理を実施し、あわせて仮園路を設置しました。
※現地説明板より










上山里丸


山里口
豊臣秀吉は側室の広沢局らを召して、芝居・能・茶道にふりましたが、それは主としてこの”山里”の一郭で行われたものと考えられています。山里丸は、上・下2つの曲輪よりなっており、ここ山里口は上山里丸に通じる虎口(出入口)の一つです。

昭和62~平成元年度(1987~1989)の発掘調査により、門礎石・石段・玉砂利敷が新たに発見され、防御面を配慮した複雑な出入口であることが明らかになりました。
※現地説明板より



佐賀県立名護屋城博物館
日本100名城スタンプ設置場所。


安宅船

黄金の茶室
桃山文化の絢爛豪華さとは対照的に、質素・簡略・不完全の中に美を求める「侘び茶」もまた、この時代に大きく発展します。名護屋城には、「名護屋城図屏風」にも描かれているように、「黄金の茶室」とは趣の異なるもう一つの茶室がありました。いわゆる「草庵茶室」です。

千利休が完成したとされるこのスタイルは、草葺きの屋根や竹・土壁など素朴な材料でつくられ、自然の美をとりいれたものでした。秀吉が生活した山里丸の発掘調査で発見された茶室跡は、「御座敷四畳半、柱も其外みな竹なり」という「宗湛日記」の記述とよく一致しています。絢爛な黄金と侘び寂びの風情を尊ぶ茶の湯は対極にあり、相容れないものと考える人も多いでしょう。しかし、秀吉はその非常識を形にし、黄金で茶の湯を表現させたのです。「黄金」に包まれた秀吉の「茶の湯」空間から、皆さんは何を感じるでしょうか。
※佐賀県立名護屋城博物館説明文より

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