概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
天神山小水城は、福岡県春日市天神山一丁目・二丁目の白水池東側に位置する飛鳥時代の防衛土塁遺構である。太宰府防衛のために春日市から大野城市にかけての丘陵間低地・谷部に築かれた一連の小水城群(春日市内に上白水、下白水、天神山など)の一つであり、国の特別史跡「水城跡」の附(つけたり)指定地に含まれる。天神山丘陵と西側の白水池方面の谷を遮断するように築かれた版築土塁で、基底部の幅約20メートル、現存する土塁長は約60メートル、高さは数メートルを測る。土塁の北側(外側)には空堀(濠)が掘削され、遮断防壁を形成していた。住宅街の一角に土塁の高まりが緑地として良好に保存・整備され、史跡標柱や解説板が設置されている。
歴史的役割
白村江の戦い(663年)で唐・新羅の連合軍に大敗したヤマト政権(中大兄皇子/天智天皇)が、大宰府防衛および本土決戦への備えとして天智天皇3年(664年)に築造した国防施設群の一環である。御笠川谷部を遮断した本水城(大野城市・太宰府市)に対し、春日・牛頸丘陵地帯の開析谷から大宰府西側背後へ侵入する敵軍の迂回路を遮断するため、主要な谷筋ごとに小水城が配置された。強固な版築工法によって土を突き固めて築かれ、外側に濠を巡らせて水軍・歩兵部隊の南下を阻止した。唐・新羅からの侵攻の危機が去った奈良時代以降は軍事防衛施設としての実戦的役割を終え、後世は地域の溜池(白水池)堤防や境界林として保全・継承された。
見どころ
版築工法によって堅固に突き固められた古代土塁(土堤)の現存高まり、土塁北側に配された遮断用の濠(空堀)跡、住宅街の中に奇跡的に保存された特別史跡指定地の緑地空間、現地に整備された国指定史跡碑および解説板、隣接する白水池と天神山丘陵の古代要害地形
ご当地グルメ
概要・現地案内板
この土手状の高まりは、飛鳥時代に国防のために造られた土塁で、水城跡と呼ばれる遺跡です。
「日本書記」には、天智天皇3年(西暦664年)に「筑紫に大提を築き、水を貯えさせる、名付けて水城という」と記されています。
これは、その前年に、唐・新羅との朝鮮半島沖の白村江での戦いに敗れた日本が、古代の役所大宰府を防衛するために水城という大きな土手を築いたという意味です。
また、水城築造の翌年には、大野城・基肄城の二つの山城を築いたと記されています。
土塁は、道路下にも隠れており、その規模は高さ5m以上、横断面の幅20m以上、土塁の長さ140m以上と推定されます。
道路によって切り取られた土塁の断面は、2段の台形状に見えます。
近づいて断面をよく観察すると、違う種類の土砂をほぼ水平に細かくつき固めて土塁を盛り上げる版築という古代の高度な築造技術が用いられたことがわかります。
※現地説明板より
城犬のおいど 攻城記録
水城って何?
水城は、白村江の敗戦の翌年にあたる天智三(西暦664年)、倭朝廷が唐・新羅の進入を防ぐために列島各地につくった防衛施設の一つです。2段に人工の土手(土塁)を築き上げた防塁は、博多湾側からの敵の侵入を想定しています。水城跡が造られたことは、「日本書記」に記されており、古代の遺跡としては築造した年大等がわかる数少ない貴重な遺跡です。

”天智三年この年、対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽を置く。また筑紫に大提を築き水を貯えしむ、名づけて水城という…”現在の大宰府市と大野城市との境に残る、総延長1.2km、土塁幅約80m、高さ10m以上の大規模な土塁(大水城、水城大提)はよく知られていますが、その西側に広がる低い丘陵地帯の谷あいの数箇所にも小規模な土塁(小水城)を築いて迂回路からの侵入を防いでいます。大野城市の上大利小水城、春日市の大土居、天神山小水城は、それぞれ現地で保存され、特別史跡に指定されています。
※現地公園案内板より

天神山水城跡
この土手状の高まりは、飛鳥時代に国防のために造られた土塁で、水城跡と呼ばれる遺跡です。「日本書記」には、天智天皇三年(西暦664年)に「筑紫に大提を築き、水を貯えさせる、名づけて水城という」と記されています。

これは、その前年に、唐・新羅との朝鮮半島沖の白村江での戦いに敗れた日本が、古代の役所大宰府を防衛するために水城という大きな土手を築いたという意味です。また、水城築造の翌年には、大野城・基肄城の二つの山城を築いたと記されています。土塁は、道路下にも隠れており、その規模は高さ5m以上、横断面の幅20m以上、土塁の長さ140m以上と推定されます。

道路によって切り取られると、違う種類の土砂をほぼ水平に細かくつき固めて土塁を盛り上げる版築という古代の高度な築造技術が用いられたことがわかります。
※現地看板より

2026/2最終訪問
