概要
岡城は、天神山の断崖上に築かれた天然の要害で、中世は志賀氏の本拠、近世は岡藩(中川氏7万石)の居城。1586年の豊薩合戦で志賀親次が島津軍を3度撃退し「難攻不落」の名を揚げた。1594年以降、中川秀成が総石垣の近世城郭に大改修し、本丸・二の丸・三の丸・西の丸を整える。明治の廃城令で建物は破却されたが、壮大な高石垣と門跡・仕切・虎口・屋敷跡が良好に残る。1936年に国史跡指定。二の丸には朝倉文夫作の瀧廉太郎像が立ち、『荒城の月』の舞台としても知られる。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | オカジョウ |
| 別名 | 臥牛城、豊後竹田城 |
| 所在地 | 大分県竹田市大字竹田 |
| 100名城スタンプ | 第95 観覧料徴収所(総役所跡) |
| 城郭構造 | 梯郭式山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城者 | 緒方惟栄 |
| 主な城主 | 緒方氏、志賀氏、中川氏 |
| 築城年 | 1185 |
| 廃城年 | 1871 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 再建建造物 | なし |
| 指定文化財 | 国指定 |
| 遺構 | 石垣、井戸跡、曲輪 |
| 現状 | 史跡岡城址 |
| 駐車場 | 史跡岡城跡 駐車場(無料) |
| 最寄り駅 | JR 竹田駅 |
城犬のおいど 攻城記録
総役所跡(駐車場)

城址碑


スタンプ設置場所
日本100名城スタンプ設置場所
受付でスタンプを借りて下さい。




かまぼこ石

城址碑

大手門跡
大手門は、城の正面に位置する門で、本来は追手門といいます。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を集中させる目的があります。大手門には侍番が置かれ、城中への出入りにはかなりの注意が払われていました。

現在、櫓台である石垣と礎石・車敷が残っています。岡城では、文禄3年(1594)中川氏入部後、大手・近戸・下原の三口が切り開かれ、かつての大手門はここよりも東側に設けられていましたが、慶長17年(1612)に岡城へ立ち寄った築城の名人である伊勢津藩主藤堂高虎の意見によって、今のように西向きに替えたと伝えられています。
※現地説明板より


古大手門跡


岡城一周の所要時間約1時間半

西の丸跡
西の丸御殿は寛文4年(1664)に三代藩主久清により普請されました。久清は、この御殿を家督相続による隠居後の住いとして造ったようです。しかし、元禄2年(1689)の正月元日には、「当年始より御家中御礼、西御丸にて受けさせらる」といった具合に城の公式行事の一つに用いられています。

さらに、西の丸御殿は、明和8年(1771)の大火災により焼失し、安永8年(1779)に再建されて以後、政務の中心的役割を果たすようになりました。文政13年(1830)には宝厳院(三代藩主久清)の150回忌法事の祝儀能、天保3年(1832)の浄光院(太祖清秀)の250回忌の祝儀能が行われていることから、西の丸は本丸部分にはない儀礼性や居住性を取り入れた政治の中心的な曲輪です。
※現地説明板より




新屋敷門跡

西の丸御殿跡




角櫓跡






中川民部屋敷跡
西の丸周辺は、中川秀成の入部時の整備により、武家屋敷等の配置がなされ、守りを固めるために6つの櫓場が設置されました。中川民部屋敷も、当初は西の丸周辺を守るための櫓場のひとつとされています。その後、西の丸御殿が普請され、西の丸周辺には3つの家老屋敷が配置されました。

3つの家老屋敷は、中川覚左衛門屋敷、中川但見屋敷と、この中川民部屋敷です。中川民部は、3代藩主中川久清の5男の中川久旨を祖とする家系です。中川民部屋敷は、概ね3,250㎡で、北西に門を配し、主殿の玄関を構えています。屋敷跡は発掘調査の成果をもとに、礎石による建物表示がなされ、主殿では表書院、奥書院、台所、離座敷などが想定されています。

また、茶室や土蔵なども知られています。屋敷地の北東には藩主専用の御成口とされる通路が設けられています。
※現地説明板より

近戸門跡
中川秀成による岡城の築城(増築)は西側の曲輪として、待屋敷が整備されました。この整備にあたり、西側の城郭の緑辺には守りを固めるために6ヶ所の櫓を配置し、近戸門を設置しています。近戸門に至る近戸口の通路沿いには、近戸口を守護するための武家屋敷等が配置されました。

近戸門は、史料によると、文禄3年(1594)「下原口を搦め手とし近戸口を切り開き三口とす。」とあるように、岡城の主要口の一つで、普請を始めて慶長元年(1596)「岡城普請成就」の時点では完成していたと思われます。宝永3年(1706)大手門を建直し、その古御門は近戸門に移されています。同年、5代藩主久通は生母長寿院が死亡したので、江戸から帰城の折には忌中につき、近戸門から入城しています。

近戸門は、明和2年(1765)に普請方からの出火で焼失し、翌年補修の願いを幕府にしています。昭和60年度の発掘調査により、近戸門跡からは、門の礎石・車敷、また、門内側には番所が設けられていたことも確認されました。調査中に「是より内、たいまつともす事、くわえきせる、堅停止」の文字が刻まれた石柱は城下の各要所に建てらていたようで、今も十川橋の対岸に残っています。
※現地説明板





中川覚左衛門屋敷跡
岡藩家老中川覚左衛門家は、茶道織部流の祖、古田織部正重勝の子孫です。覚左衛門家は、藩主中川家に代々仕え、中川の姓を賜り、延享2年(1745)にこの屋敷地に移りました。古田家の記録には、「ここは、宇を奥近戸と言い、東南が開けて前に深い谷がある。

竹林が繁り、西北には松の木があり、東西北には岩がそびえて、ここは険しい城のなかでも特に険しい所である。敷地は広く2300石取りの家老屋敷にふさわしい所である」といっています。また、歴代の藩主は、城内外に屋敷を持つ家老・城代宅などへ立寄することが慣例で、覚左衛門屋敷には文化8年(1811)、安政4年(1857)・5年の三度の訪問が確認されています。

覚左衛門屋敷跡は、平成5(1993)~7年まで発掘調査を実施し、玄関部に向かう飛石列、屋敷の範囲を表す礎石、東石、狭間石等が確認されました。さらに、敷地内の様子や屋敷の間取り等が詳細に記された絵図があります。整備は、その図と検出された遺構を基に、間取り等の復元を行いました。復元は、畳の面まで床立ちさせ、柱、床東の足元、土台は光付け加工、その他の継手、仕口、仕上げ等は古来の技法によって加工しています。

また、使用した材料の木材は、耐久性・寸法安定性の高い保存処理をしています。畳は、板を張り合わせて畳大に成形し、板畳の縁を黒色塗料で表現しました。
※現地説明板より




賄方跡
文献では、明和2年(1765)に焼失した箇所に「御賄所」という記載がはじめてみられます。さらに、商業・金融活動をしていた「三浦家文書」(大分市)のなかに文政10年(1827)と嘉永元年(1848)岡城へ登城したときの記録に「御賄方御役所」、「御賄所」の記事があります。

この史料には、登城する場合、まず「惣役所」に行き献上品を差し出し、城内に案内され「御賄所」で待たされ、西の丸御殿の「獅子ノ間」敷居の外から「山水ノ間」に出座した藩主と対面しています。この記録により、賄方は来客者などのもてなしによる賄いを行う部所であることがわかります。
※現地説明板より

武具方跡




中川但見屋敷跡
中川但見屋敷跡は、西の丸周辺に存在する三つの家老屋敷の一つです。この屋敷跡は、大手門から本丸へ向かう桜馬場跡の左側に位置します。桜馬場跡沿いに正面入り口があり、その入り口は石段を伴う門となっていました。

また屋敷跡は、中川秀成が入部した際に、岡城築城着手から本丸完成までの間、仮屋敷として過ごしたところです。中川但見は元亀年間より太祖中川清秀の老職として仕えた戸伏氏の家系で、2代藩主久盛の代に中川姓を名乗り歴代藩主の老職として仕えています。
※現地説明板より

中休所跡


城代屋敷跡


籾倉跡


西中仕切跡

貫大門跡


太鼓櫓門跡

三の丸跡
三の丸は西側に「太鼓櫓門」、東側に「御門櫓」(埋御門)の2箇所に入口がありました。「太鼓櫓門」を入ると石垣に囲まれた枡形の虎口が形成され、三の丸への通用口(幅5m)と藩主専用の「御成門」(幅2m)の石段が2箇所あります。三の丸の周囲には、各種の櫓が建てられ、中央に殿舎が位置していました。

殿舎は、40畳の「寄附」や30畳の「御広間」があり、御広間には床、棚、書院等の座敷飾りがみられ、上ノ間として使用されていました。三の丸は他藩の使者や家臣が藩主と対面する場として使われていたと考えられます。殿舎のあった位置には、以後土蔵が建てられ土壁の跡が今でも残っています。
※現地説明板より



井戸跡


本丸跡



御三階櫓跡


岡城天満神社
当社に鎮座する大神様等は「難攻不落」の城の如く不屈の精神と勇気を授けてくださる神様です。どんな困難や試練にも屈せずに、真の力を発揮する道を照らしていただけます。
※現地看板より

御金倉跡






二の丸跡
二の丸は、北の方角に張り出したL字状の地形をなしています。中央に御殿を配し、御玄関を入ると台所まで大広間が続き、地形に沿うように老松ノ間から山吹ノ間まで書院が形成されていました。また、北端の突出したところには数寄屋風の月見櫓、東端に風呂屋が造られていました。

二の丸は、軍事的要素の強い各郭とは対照的に和やかで優雅な趣のある建物を有するという岡城の中で特徴的な施設で、遊興の場として使用されていたと考えられます。
※現地説明板より

滝廉太郎銅像
この銅像は、瀧廉太郎と直入郡高等小学校の同窓であった彫塑家朝倉文夫により造られたもので、文夫が当時の記憶を蘇らせながら制作したことが像の裏面に刻まれています。

月見櫓跡
月見櫓は、外側に縁が巡らされた望楼が設けられていました。防御を目的としたものではなく、詩歌や茶の湯、酒、書画、音楽などが楽しまれていました。政務の場と遊興の場を併せ持つ月見櫓は各部に意匠が凝らされていたことが絵図などから窺えます。
※現地二の丸説明板より

埋御門跡



東中仕切跡


米倉跡

清水門跡

御廟所跡




下原門跡


2026/2最終訪問
城郭周辺地図
[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 大分県の城郭一覧 ]



