概要
高遠城は、諏訪氏の一族、高遠氏によって築かれたとされ、伊那谷北部の要衝を占める堅固な山城。戦国時代には武田信玄の信濃侵攻の拠点となり、武田氏の五名臣の一人である高遠頼継や武田勝頼の異母弟である仁科盛信が城主を務めた。特に1582年の織田信長の甲州征伐においては、織田軍の大軍に対し、仁科盛信らが最後まで抵抗し壮絶な戦いを繰り広げたことで知られる。廃城後、本丸跡は高遠城址公園となり、桜の名所として全国的に有名。現在は多くの石垣や土塁、曲輪の跡が残る。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | タカトオジョウ |
| 別名 | 兜山城・霞ヶ城 |
| 所在地 | 長野県伊那市高遠町東高遠 |
| 100名城スタンプ | 第30 高遠町歴史博物館・9:00~17:00(入館は16:30まで)・月曜休館(祝日の場合は翌日休館、桜の時期は無休) |
| 城郭構造 | 連郭式・梯郭式平山城 |
| 天守構造 | 不明不明 |
| 築城者 | 諏訪氏または高遠氏 |
| 主な城主 | 高遠氏・武田氏・織田氏・保科氏・鳥居氏・内藤氏 |
| 築城年 | 鎌倉時代後期~南北朝時代初期頃 |
| 廃城年 | 1636年 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 再建建造物 | 太鼓櫓門・新城藤門 |
| 指定文化財 | 国指定 |
| 遺構 | 曲輪跡・石垣・土塁・空堀(堀切、竪堀、横堀)・井戸跡 |
| 現状 | 高遠城址公園(桜の名所) |
| 駐車場 | あり・高遠城址公園駐車場・有料(桜の時期以外は無料の箇所も) |
| 最寄り駅 | JR飯田線伊那市駅または伊那北駅からJRバス高遠線「高遠駅」下車、徒歩約15分。または高遠駅より高遠城址公園シャトルバス(桜の時期のみ運行) |

城犬のおいど 攻城記録
大手門跡
築城当初、表門である大手は城の東に、裏門である搦手は西に位置していた。ここが大手に変わったのは、幕藩体制の基盤が揺るぎないものとなってきた江戸時代の初期と言われていて、正保年間(1644~1648)に描かれた絵図では、城の西(現在地)に大手門が確認できる。

廃城後、この周辺の改変は著しく、往時の様子を窺い知ることができないが、道路南東(右手奥)にある突き出した大きなこの石垣は、大手枡形の一部と思われ、当時の石垣構築物の姿を留める貴重なものである。
※現地看板より

大手門
この門は高遠高等学校が、この地にあった昭和59年(1984)まで正門として使用されていた。明治5年(1872)新政府から城郭の取り壊しを命じられ、城の建造物や樹木は、競売に付されすべて取り払われた。

当時、城内には大手、二の丸、本丸、搦手の4つの櫓門があったが、いずれも競売されて民家や寺院の門として払い下げられていった。この門は、そのうちの大手門といわれているが、その形は切り詰められ当時の姿ではない。昭和29年(1954)に高遠高等学校の正門として、伊那市富県の那須退蔵氏(亡)より寄贈を受け移築されたものである。
※現地看板より

勘助曲輪
高遠城は戦国時代、武田信玄の命により山本勘助が縄張(設計等)をしたと伝えられています。勘助曲輪の名称は、設計者の山本勘助に由来しますが、築城当初この曲輪はなく、大手口を東側から西側へ移した際、新たに造成されたのではないかと言われています。

かつては、ここの駐車場の中央に堀があり、南側が勘助曲輪、北側が武家屋敷となっていました。曲輪周辺の堀は、戦後埋め立てられ、旧高遠高校グランドとして使われた後、現在は駐車場となっています。勘助曲輪の広さは769坪(2542㎡)で、曲輪内には櫓や祭事事務所、硝煙小屋、稲荷社等がありました。このうち、稲荷社は幕末に城下へ払い下げられ、勘助稲荷として、相生町に祀られました。
※現地説明板より

高遠城址公園
この城は三峯川と藤沢川の合流する要害の地に天文16年(1547)武田信玄が、山本勘助等に命じて築かせた平山城である。構成は、本丸を中心として東に二の丸、三の丸、南に南郭、宝憧院郭、西は一段低く笹郭、勘助郭となっている。これらは、深い空堀によって隔てられ周囲には高い土塁が築かれ、石垣はほとんど使用されていない。

明治2年版籍奉還によって廃城となったが、土塁など多少改変された所はあるが、戦国的な城郭の構えをとどめている。城主は、武田氏、保科氏、鳥居氏、内藤氏等である。また城内三の丸には藩学校進徳館の建物がある。時の規模そのままではないが場内にのこる藩校としては、全国でも数の少ない貴重なものである。城跡と進徳館を含め昭和48年3月「史跡」に指定された。
※現地石碑より

二ノ丸跡
本丸の東から北に廻っている曲輪で、外周は堀によって防備を固めていた。三の丸から、北口の木橋(現在は土橋)を渡ったところから冠木門(棟門)、枡形、櫓門と続き、門を抜けると広庭(武者溜り)となる。出征の時などは、この広庭に集合して隊伍を整えたと言われている。

二の丸には時代によって変遷はあるが、役所向きの多くの建物が建てられ、厩、土蔵なども置かれていた。また、この二の丸で往時の姿を留めるものに土塁がある。これは、東側曲輪端に高遠閣の裏手から南に向かって延びる土盛で、深い堀切とともに城郭の姿をよく留めている。
※現地看板より

桜雲橋


問屋門
この門は、高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門である。江戸時代、主な街道には宿駅が定められ、問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、また、旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人をおいていた。高遠の問屋は、二人の名主との合議によって町政にも参与していた。

昭和20年代、問屋役所建物取り壊しの際、他に売却されていたが、歴史ある門が高遠から失われことを惜しんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて現在地に移築したものである。現在では、手前の桜雲橋とともに、城跡には欠かすことができない景観シンボルとなっている。
※現地看板より

高遠城の戦い(古戦場跡)
天正10年(1582)2月、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。伊那口からの嫡男信忠率いる5万の兵の進攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか3千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。

古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、3千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである。
※現地看板より

本丸跡
高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二ノ丸、さらに、その外側に三ノ丸を廻らした城郭三段の構えをもっていた。天正10年(1582)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後、

高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替わり、元禄4年(1691)からは内藤氏が廃藩まで8代、180年間にわたって城主であった。江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあった。本丸御殿は政庁であるとともに藩主住居も兼ねていたが、廃城時、城内の建物は取り壊され、今では明治8年(1875)頃に移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、幾多の武士が眠るこの地に散華となって降り注いでいる。
※現地看板より

太鼓櫓
江戸時代には、時を報じるのに太鼓を打っていた。鼓楼は搦手門の傍にあって、楼上に三鼓を備え、常に番人をおいていて、時刻がくると、予備の刻み打ちを繰り返した後、時の数だけ太鼓を打って、時を知らせていた。

廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設されて時を報じていたが、明治10年(1877)頃に本丸、西南隅の現在地に移し、旧制どおり朝6時から夕6時まで偶数時を打つことが昭和18年(1943)まで続いた。戦後、太鼓は三ノ丸にあった高遠高等学校で、授業の開始、終了を知らせていたが、現在は、高遠町歴史博物館に展示されている。
※現地看板より

南曲輪
本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之公が幼少の頃、母お静の方と居住したところと言われている。形状は方形をなし、本丸とは堀内道、二ノ丸とは土橋でつながっていた。本丸から南曲輪へは現在土橋となっているが、これは本丸南東の隅にある巨大な中村元恒・元起記念碑を建てるために造られたものである。

また、明治30年(1897)それまで雑草や小笹が生い茂った荒地であったが、靖国招魂碑を建てるにあたり、地を削り広めて平地に整備したといわれている。
※現地看板より

白兎橋
文政の頃、高速で酒造業を営み、藩の仕送役を勤める廣瀬治郎左衛門 (1768~1843)は、その号を白兎[はくと]と称し、謡曲・俳諧・和歌などを嗜む風流人であった。文政の百姓一揆の際には、自家の米蔵を開放して奉行所に押寄せた百姓らに与え、大事に至らせずにすんだという。

また、多町に通じる弁財天橋を自費で修理するなど、公共のために尽力した。その曾孫、省三郎(奇壁)は私有地となっていた法幢院曲輪[ほうどういんぐるわ]を買上げ、それを公園として寄付した。その時、南曲輪へ通じるこの橋を造り、曾祖父の俳号にちなんで「白兎橋」と名づけたのである。
※現地看板より

法憧院曲輪
二ノ丸から堀内道[ほりないみち]で通じていたこの曲輪は、城郭の南端に位置し、曲輪の東方には幅6メートル、長さ170メートルの馬場が続いていた。かつて、ここには法幢院というお寺があり、高遠城落城の際には、法要が営まれたが、城中という立地的制約があったため、一般の人も参詣できるようにと、

城の東、月蔵山のふもとの龍ケ澤に移り桂泉院と改名して現在に至っている。この曲輪からは、西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、桜の時は残雪が、紅葉のときは新雪が目にも清かに映る。
※現地看板より


高遠町立歴史博物館



2019/8最終訪問
城郭周辺地図
[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 長野県の城郭一覧 ]



