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伊勢国 松坂城 [Matsusaka Castle]

概要

蒲生氏郷が築城した平山城。石垣が見事なことで知られ、近世城郭の典型的な縄張を持つ。安土城の石垣技術を受け継ぎ、高石垣で各曲輪を連結させた構造が特徴。城下町と一体となって発展し、松坂商人の台頭を促した。現在は城址公園となっており、本丸跡には松坂市歴史と文化の博物館が建つ。

城郭詳細データ

項目内容
ヨミカナマツサカジョウ
別名松阪城・臥竜城・飯高城
所在地三重県松阪市殿町
100名城スタンプ第48 松阪市歴史と文化の博物館・営業時間 9:00~17:00 (休館日を除く)
城郭構造梯郭式平山城
天守構造不明不明
築城者蒲生氏郷
主な城主蒲生氏・服部氏・古田氏・堀尾氏・奥平氏・本多氏・菅沼氏・有馬氏・久松松平家
築城年1588年
廃城年1871年
城址碑あり
案内板あり
現存建造物【移築】大手門番所 (本居宣長旧宅庭園へ移築)
再建建造物なし
指定文化財国指定
遺構石垣・曲輪跡・堀跡・井戸跡・天守台・門跡
現状松坂城跡公園・松阪市歴史と文化の博物館・本居宣長記念館
駐車場あり・松坂城跡駐車場・無料
最寄り駅JR紀勢本線・近鉄山田線 松阪駅 (徒歩約15分)


城犬のおいど 攻城記録


駐車場


表門跡


本瓦葺二階建の本格的な櫓門。明治初期に破却。
※現地松坂城跡を守る会看板より

井戸


江戸時代に描かれた城絵図では、城郭内に三か所の井戸を確認できるが、この井戸は17世紀中葉に描かれた「勢州松坂城図」にもある最古に属する井戸である。

公園内には、この井戸のほか、本丸上段部と隠居丸庭園内の三か所に江戸時代以来の井戸が現存する。
※現地標柱より

歴史民俗資料館


明治45年(1912)、東宮殿下(大正天皇)行啓記念に建設された旧飯南郡図書館。今は歴史・民俗資料展示施設。本館と倉庫は国登録有形文化財。
※現地松坂城跡を守る会看板より

助左衛門御門跡



月見櫓跡


本丸下段東角にあった二層の櫓。台所棟と付属舎が付いていたが、17世紀中期に大破。
※現地松坂城跡を守る会看板より

多聞跡


太鼓櫓跡


本丸


金の間櫓跡


本丸下段東角にあった二層の櫓。台所棟と付属舎が付いていたが、17世紀中期に大破。
※現地松坂城跡を守る会看板より

松阪開府之碑


裏面は庄司松阪市長の撰文により、蒲生氏郷から服部一忠、古田重勝・重治を経て紀州藩領になる履歴を刻む。昭和25年(1950)建立。
※現地松坂城跡を守る会看板より

敵見櫓跡


天守跡


三層の望楼型天守であったが、正保元年(1644)7月29日の台風で倒壊。天守台の石垣には、古墳時代の石棺材も積み込む。
※現地松坂城跡を守る会看板より

天守跡の石棺


きたい丸


中御門跡


隠居丸


二の丸跡


藤棚


この紫藤は愛知県海部郡鍋田村字森津にあり当時二百余年経たのを、市内中町脇田藤助翁が明治23年に株分け市に寄贈されたものである。通算樹齢約300数年を数え藤棚面積346平方メートル(105坪)主幹周囲は5メートル開花期は4月下旬紫色花房が1メートル余り花の香り高く松阪の名木として市民に親しまれています。
※現地説明板より

白塚大三郎顕彰碑


徳川陣屋跡


土戸御門跡


裏門跡


松坂城跡


松坂城は蒲生氏郷が天正16年(1588)この四五百森に築城した平山城である。蒲生氏郷が陸奥黒川(現在の福島県会津若松市)へ移封後、天正19年(1591)に服部一忠、文禄4年(1595)に古田重勝と城主が変わり、元和5年(1619)に徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢州領(松坂・田丸・白子等)18万石を統轄する城代が置かれてきた。

城は北を大手、南を搦手とし、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、本丸・二ノ丸等には高い石垣を築き、外郭に土塁や堀をめぐらせていた。三層の天守と金ノ間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保元年(1644)の台風で天守は倒壊したと伝えられている。また、二ノ丸には寛政6年(1794)に着工された御殿(別名徳川陣屋)があった。明治14年(1881)松阪公園となり、現在に至っている。
※現地説明板より

捨石状遺構


松阪市では、平成14年度松阪城石垣復興事業として、裏門と本居宣長記念館の間にある「隠居丸」と呼ばれる部分の石垣南半分を修復しました。その石垣の取り外し作業の途中で、石垣の一番下の基底石付近で、江戸時代の石垣修理の跡が見つかりました。

この隠居丸付近は、地盤が脆弱なのが石垣の孕みが激しく、今回の修復となったのですが、松阪城から本居宣長ノ宮にかけての場所は、丘陵としてはやせた場所といえます。そのため、今回修復の石垣の地盤は、比較的弱い盛土のようで、地盤がゆるく基礎石付近の石が最大0.5mほど外に飛び出していました。それらの石を応急的に抑える石(捨石)が今回発見されたものと思われます。石垣の修復については、隠居丸付近の記録もあり、それらの修復に伴うものと推定されます。

石垣を抑える石は、現況の表土から約0.2m下から見つかり、板状の石の組み合わせで捨石が置かれ見つかりました。この捨石状遺構の幅は0.8mから1.0m、長さ約19mほどで、石垣が孕んだ部分にの見られまいした。捨石状遺構の例については、三重県下では現在のところ確認されていない珍しいものです。
※現地説明板より

三の丸跡


御城番屋敷


平屋建、桁行一二間半、梁行三間、切妻造、桟瓦葺、南面及び西面は土庇桟瓦葺の建物である。
 外回りは、背面と東側面、正面の土庇上部では壁面を下見板で覆い、その他は漆喰塗り仕上げの白壁である。
 
 

内部は、西から桁行四間、六間半、三間に三分割され、それぞれ戸口が開かれ、中央と東の区画では二層に床が張られている。構造は、棟通りの柱で地棟を受け、地棟に登梁を架けて屋根を支え、棟通りの柱から桁行、梁行の対応する柱に繁梁を渡すものである。
 

この土蔵は、江戸時代末期に松坂城内の隠居丸に建てられていた三棟の土蔵(米蔵一、道具蔵二)のうちの米蔵で、明治初期に苗秀社に払い下げられて現在地に移築されたと言われている。このことが事実ならば、旧松坂城関係の建物としては、唯一の現存する建物となる。

なお、土蔵の西側には、紀州藩の初代藩主徳川頼宣(南龍公)を祀った南龍神社がある。
※現地説明板より

2020/12最終訪問


城郭周辺地図

三重県松阪市殿町

松坂城跡駐車場


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