概要
伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)に位置した平城(水城)。かつては東海道五十三次の要衝であり、伊勢湾に面した立地を活かした水城としても知られる。戦国時代末期に織田信雄が改修し、江戸時代に入って徳川四天王の一人である本多忠勝が大規模に整備した。その後、松平氏(久松松平家)の居城として幕末まで続いた。現在、城址は九華公園として整備され、堀の一部や石垣、曲輪の遺構が残る。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | クワナジョウ |
| 別名 | 扇城・扇ヶ城・扇ヶ谷城 |
| 所在地 | 三重県桑名市吉之丸 |
| 100名城スタンプ | |
| 城郭構造 | 連郭式平水城 |
| 天守構造 | 不明不明 |
| 築城者 | 本多忠勝 |
| 主な城主 | 本多氏・松平氏 |
| 築城年 | 1601年 |
| 廃城年 | 1873年 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 再建建造物 | 復元された城門(蟠龍櫓、辰巳櫓) |
| 指定文化財 | 国指定 |
| 遺構 | 曲輪(本丸・二の丸・三の丸等)・石垣・堀跡・井戸跡 |
| 現状 | 九華公園 |
| 駐車場 | あり・九華公園駐車場・無料 |
| 最寄り駅 | JR・近鉄桑名駅から徒歩約15分 |

城犬のおいど 攻城記録
桑名城絵図
戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され信長の家臣滝川一益(かずます)の支配を受けました。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。桑名城に初めて天守が築かれたのは、文禄4年(1595)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守を移したといわれています。






神戸櫓跡
戦国時代、この付近には伊藤武左衛門が治める東城があったとされる。織田信長の伊勢侵攻の時、伊藤氏は降伏し、東城は廃されたものと思われる。文禄の頃(1592~1596)一柳直盛が城主となると城郭が築かれ、その時伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守を移したといわれている。

江戸時代、初代藩主本多忠勝は城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたが、神戸城の天守は櫓としてそのまま残され「神戸櫓」とよばれた。
※現地説明板より


辰巳櫓跡
桑名城本丸の東南角にあり、三重櫓であった。元禄14年(1701)天守が焼失し、再建されなかったので、以後はこの辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在であった。このため、明治維新の時、降伏のしるしとして新政府軍に焼き払われた。現在大砲が置かれているが、由来等は不詳。
※現地説明板より


大砲


天守台跡
此処は桑名城天守が聳えたっていた址で、三重県指定史跡である。松平定綱公の寛永年間(1635~1651)に城郭が完成し「海道の名城」と讃えられます。元禄14年(1701)2月城下より発した猛火に襲われて城も焼失。天守は再びその雄姿をあらわすことなく、明治廃城に到りました。

現在の石組みは昭和53年5月に、樂翁公没後150年記念大祭協賛事業の一環として、新しく巨石を入れて献備したものである。
※現地案内板より

案内板


鎭國守國神社


本多忠勝像

七里の渡跡
桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28キロ)あることから、七里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入り口にあたるため、伊勢国の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられました。

七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣、駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には船会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。昭和33年(1958)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。昭和34年(1959)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前には堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異なる表情を見せています。
※現地案内板より


三の丸公園


水門統合管理所
管理所周辺は、城跡や名所旧跡・レクリエーション施設等が整備された公園として、市民や観光客の憩いの場となっています。揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側および川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして景観に配慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。

これら三つの水門は高潮警戒時に操作する防潮水門で、安全性・効率性・迅速性を考慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました。管理所は、かつて桑名城の隅櫓の一つである蟠龍櫓が建っていたところに位置するため、建物の設計にあたってこの櫓の外観復元を目指すこととなりました。伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史資料は限られましたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけるよう推定復元しました。

4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701)に天守が焼失して以降、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。
※水門統合管理所入口看板より

勢州桑名城中之絵図
通称「正保城絵図」と呼ばれるもので、3代将軍家光が将軍の力を示すため、全国の大名に実測を書き入れて提出を命じたものである。桑名は5代目藩主松平定綱の時代で、4層の天守を擁し、揖斐川沿には石垣と櫓が連なり「海道の名城」と讃えられた様子がうかがえる。蟠龍櫓も描かれており、この櫓の復元はこの絵図を参考としている。
※現地説明板より

蟠龍瓦
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。

文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥竜の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚往ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。
※水門統合管理所入口看板より

蟠龍櫓
桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。

蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。
※水門統合管理所入口看板より


2020/7最終訪問
城郭周辺地図
[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 三重県の城郭一覧 ]



