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筑後国 蒲池城 [Kamachi Castle]

概要

蒲池城は、柳川市に所在した中世の平城である。鎌倉時代に蒲池久憲によって築かれ、筑後国を代表する国人領主・蒲池氏の本拠として約350年間機能した。天正9年(1581年)に蒲池鎮漣が龍造寺隆信に謀殺された後、蒲池氏は滅亡し、城も廃城となった。柳川市蒲池の低湿地帯に位置する平城。筑後平野の中央部に位置し、周囲に水堀を巡らせた堅固な構造を持っていた。有明海沿岸の交易と水運の要衝として、戦略的に重要な地点であった。
蒲池氏の本拠として筑後国の政治・経済の中心を担った。蒲池氏は「筑後十五城」の筆頭として大友氏の重臣となり、筑後国の安定に貢献した。耳川の戦いでは蒲池鑑盛が討死し、その後蒲池氏は滅亡した。天正9年(1581年)の蒲池氏滅亡後に廃城となった。現在は蒲池城址公園として整備され、土塁と水堀の一部が残る。市指定史跡として保存され、城址碑と案内板が設置されている。
筑後国を代表する中世国人領主の居城遺構として重要。水堀と土塁の遺構が残り、筑後平野における平城の構造を知る上で貴重な資料。市指定史跡として保護されている。

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城郭詳細データ

項目内容
ヨミカナカマチジョウ
別名蒲池氏館
所在地福岡県柳川市東蒲池
100名城スタンプ第-番 -
城郭構造不明平水城
天守構造不明なし
築城者蒲池久憲
主な城主蒲池氏・立花氏
築城年13世紀末~14世紀初頭
廃城年1587年
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
再建建造物なし
指定文化財市指定史跡
遺構土塁跡・水堀跡・居館跡
現状西鉄天神大牟田線 蒲池駅より徒歩約10分
駐車場なし
最寄り駅西鉄天神大牟田線 蒲池駅より徒歩約10分


城犬のおいど 攻城記録


駐車場


崇久寺


凌霄山崇久寺は、鎌倉時代初期に筑後国三潴郡蒲池に移り蒲池姓を名乗った蒲池家の菩提寺である。現在は臨済宗妙心寺派。寺伝では初めは長福寺といい、後醍醐天皇の勅願寺となったが、

兵火を受けたため暦応2年(1339年)に足利尊氏が再建し、聖一国師の法嗣・南山和尚(士雲)を開山したという。宝徳年間(1449~1451)の古文書に「蒲池崇久寺」とみえることから、その以前に「崇久寺」となっていたことがわかる。天正9年(1581年)蒲池氏滅亡の時、諸寺・諸院・勅額が焼失。その後、勅命により京都南禅寺の住職清韓の筆による崇久禅寺の勅額をいただいて再建した。

天正15年(1587年)柳川に入城した立花宗茂は寺領八反を、筑後国主となった田中吉政は慶応6年(1601年)に寺領4石余をそれぞれ寄進し、元和6年(1620年)筑後柳川に再封された立花氏も同様に寺領を寄進した。なお、現在の本堂は安政7年(1860年)の建築である。本尊木造11面観音座像は、南北朝から室町時代にかけて、慶派の作と伝えられている。

脇立は増長天像及び多聞天像である。開山の南山和尚(士雲禅師)の像(頂相)は、永禄12年(1569年)矢ヶ部の佛師士珍と士芳の作であるが、現存する頭部は近世京都の佛師円説が修理したものといわれている。参道西側には天文22年(1553年)に蒲池鑑盛が建立した一千部塔があり、本堂西側には蒲池鑑盛の笠塔婆及び蒲池氏一統のものと思われる石造五輪塔がある。

その他にも柳川城主蒲池鎮並(鎮漣)の娘で、大友氏の一族朽網氏に嫁し、後に筏溝(三潴郡大木町)に移り、寛永9年(1632年)に死去した徳女の碑をはじめ、下蒲池氏に関すると思われる古碑や自然石の塔が幾つかある。
※現地看板より

蒲池氏墓碑


柳川城主主蒲池鑑盛とその一族の墓碑

梵鐘


2026/6最終訪問


城郭周辺地図

福岡県みやま市瀬高町大廣園

駐車場なし


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