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伊豆国 下田城 [ SHIMODA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナシモダジョウ
別称鵜島城
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類水城
築城者後北条氏
築城年不明
廃城年1590年
主な城主後北条氏、清水氏、戸田氏
指定史跡なし/不明
標高67.5 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構土塁、空堀
現状下田公園(城山公園)
駐車場下田海中水族館 駐車場
最寄り駅伊豆急行 下田駅


概要・現地案内板

天下統一を進める豊臣秀吉と小田原北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)北条方の水軍の拠点として下田城が取り立てられ、清水上野介康英が城将となった。
海に落ちる断崖に囲まれた天然の要害を利用して築かれた海賊城である。
天守跡と伝えられる城山の頂きから四方にのびる尾根の要所に曲輪が設けられ、延々と続く深い空堀の遺構は現在もよく残されている。
天正17年(1589)12月から翌年にかけて籠城の準備が行われ、雲見の高橋氏、妻良の村田氏等の南伊豆の武士が城に入り、小田原から副将として江戸朝忠、検使として高橋郷左衛門が派遣されてきた。
天正18年(1590)3月、秀吉の水軍脇坂安治、長宗我部元親、安国寺 恵瓊 による下田城攻撃が始まった。
およそ50日の籠城の未開城となり、城将清水康英は河津三養院に身を寄せた。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


下田公園



順路は右で、山道を登ると城址への近道。

土橋


空堀


下田城は、戦国大名北条氏が、豊臣秀吉との対決に備えて大改築した中世末期の山城である。城は、北条水軍の拠点として、下田湾に張り出した半島に築かれている。尾根の要所に曲輪や物見台を配し、およそ七百メートルの長大な空堀が巡る強固なものだった。天正18年(1590)に襲来した豊臣方水軍は一万人を超える圧倒的な兵力で海と陸から城を包囲した。

籠城した北条方の軍勢は、清水上野介康英を城将に、およそ六百名程度であった。50日あまりの攻防を経て、寄せ手の安国寺恵瓊・脇坂安治の起請文が出され、籠城軍は開城に応じた。城址は400年を経ているが、空堀の残存状態は良好である。北条氏が築いた山城の特徴である畝堀は、空堀の中に、侵入した敵兵の行動を妨げるために障害物(畝)を設けたもので、今日も目を凝らすとその形状を見ることができる。
※現地案内板より

切通


本曲輪(左)と南曲輪(右)を切っている堀切。

天下統一を進める豊臣秀吉と、小田原を本拠地とする北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)、陸の防術拠点である箱根の山中城(三島市)とともに、海の防術拠点として下田城が取り立てられ、伊豆郡代清水上野介康英を城将に大改築が行われた。城は、海と断崖に囲まれた天然の要害に築かれている。通称天守台跡と呼ばれる高台を中心に、四方にのびた尾根の要所に守備陣地である曲輪や櫓台が設けられ、総延長7百メートルを超える空堀が巡る伊豆半島最大規模の山城である。

天正17年(1589)12月から翌年にかけて、雲見の高橋氏や妻良の村田氏など南伊豆の武士が入城し、小田原からは援将江戸摂津守・検使高橋郷左衛門が派遣され、臨戦態勢が整えられていった。天正18年(1590)3月、清水湊(江尻)に集結した秀吉方水軍は、長宗我部元親や脇坂安治ら率いる一万人を超える大船団で、西伊豆を制圧しながら下田城に迫った。圧倒的な兵力を眼前に、城将清水康英ら600余名の籠城軍は、50日ほど防戦に努めたが、4月下旬には開城の勧告を受け入れ、城を出た。
※現地看板より

城址碑


本曲輪


櫓台


眺望(下田港)


寺曲輪


下に見える広場が寺曲輪です。

障子堀


南曲輪


東曲輪へ


2024/8最終訪問


城郭周辺地図

静岡県下田市


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