城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | カツヤマジョウ |
| 別称 | なし |
| スタンプ設置場所 | ー |
| 曲輪配置 | - |
| 城郭種類 | 山城 |
| 築城者 | 小山田信有 |
| 築城年 | 1532年 |
| 廃城年 | 不明 |
| 主な城主 | 小山田氏、浅野氏、秋元氏 |
| 指定史跡 | 県指定 |
| 標高 | 569.5 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | なし |
| 現状 | 勝山城跡 |
| 駐車場 | 勝山城跡駐車場 |
| 最寄り駅 | 富士急線 谷村町駅 |

概要・現地案内板
勝山城は、文禄3年(1594)に浅野左衛門氏重によって築城されたと「甲斐国志」に記されている。
当時、甲斐国には、江戸の徳川家康に対する備えとして、豊臣秀吉の一族浅野長政が配されていたが、浅野左衛門氏重は浅野長政の家老として、甲府城の前城となる勝山城を築城し、郡内地域の守りに当たったという。
この勝山城は、居館である谷村城の要害城(非常時の場合たてこもる詰の城)としての役割を担っていたといわれ、勝山城と谷村城とは桂川を挟んで内橋で連絡されていた。
本城には、秋元氏の在城時に、宇治から江戸に運ばれる将軍家御用のお茶壺を保管する茶壷蔵が置かれていた。
その場所は本丸の北側を下った北尾根付根の曲輪に推定されている。
宝永元年(1704)郡内谷村藩主秋元氏が武州(現在の埼玉県)川越に転封した後、勝山城は廃城となり郡内は天領として谷村代官の支配下に置かれた。
勝山城は、近年郡内領主小山田越中守信有が中津森の館が焼け、居館を谷村に移した時に、築城されたのではないかと考えられるようになった。
小山田氏以降、城の主はめまぐるしく変わった。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
案内看板
勝山城は、標高571.36mの独立峰に築かれた山城で、「甲斐国志」には、文禄3年(1594)に浅野左衛門佐が築城したと記されています。しかし、戦国期に小山田氏の詰城として築城されたのが始まりで、天正壬午の戦いでは後北条氏により手が加えられ、

さらに浅野氏により大規模修築が行われるなど、郡内領主の詰城や居城として幾度か修築が重ねられました。その後、江戸時代には秋元氏により谷村城の一部として修築されました。浅野氏以前の遺構は、北尾根で良好に認められ、本丸下の緩斜面では尾根を横断する幅8m、深さ2mの薬研堀、尾根先端では独立した曲輪(大沢見張り台)を取り巻く幅8m、深さ2m、堀切が発掘調査により検出され、また、同曲輪の手前には竪堀が設けられています。

これらは本丸防御のために設けられており、この他にも、東側尾根、南側尾根には、源生見張り台、川棚見張り台などの曲輪を中心に小規模な曲輪群が設けられています。現在確認できる勝山城の縄張りは、浅野氏の大規模修築によるもので、西側を意識して修築されている点が注目されています。本丸には、北側に土塁、西側には櫓台が認められ、発掘調査によりここに櫓が設けられ、その下には織豊期に見られる高石垣が築かれていたことが明らかになりました。

また、本丸西側には、面積の広い二の丸、三の丸などの曲輪や、各尾根を結ぶ帯曲輪が設けられており、さらに、西側尾根を遮断し守りを固めるため、本丸北側下から南側尾根の下にまで続く二本の内堀が設けられています。この他、二の丸から本丸、本丸北側、北側尾根において石垣や石列が認められ、また、勝山城は、桂川の深い渓谷が天然の外堀で、南から西側には、幅30m程の勝山城の外堀跡が認められます。

江戸時代の勝山城は、「甲州谷村城絵図」などで知ることができますが、本丸に建物や、石垣、北・東側の曲輪には御茶壺蔵と記されており、さらに谷村城と内橋で結ばれた登城路が描かれています。発掘調査により、本丸及び北側尾根において建物跡が検出され、北側尾根で検出された建物跡は半間間隔で柱が配されており、ここに幕府御用の茶壷蔵などの貯蔵・保管施設が設けられていたと推定されています。
※現地看板より

内堀


川棚見張台



三の丸


帯郭


二の丸



本丸




煙硝蔵跡方面




石列

竪堀

土橋

大沢見張台





帯郭

二の丸

三の丸

眺望

外堀


2025/2最終訪問
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