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豊後国 臼杵城 [USUKI-CASTLE]

概要

臼杵城は大友宗麟が臼杵湾の丹生島に築いた海城で、のち豊臣系大名・稲葉氏の手で近世城郭へと整備され、天守・31櫓を備えた要害であったが、明治初年に廃城となった。現存の畳櫓・卯寅口門脇櫓は全国的にも珍しい重箱造りの遺構で、天守台・空堀・石垣が当時を物語る。2025年3月10日には城跡全体が国史跡に指定され、歴史的価値が再評価されている。

城郭詳細データ

項目内容
ヨミカナウスキジョウ
別名丹生島城、巨亀城、金亀城、亀城
所在地大分県臼杵市大字臼杵
100名城スタンプ第193 臼杵市観光交流プラザ
城郭構造連郭式平山城(海城)
天守構造独立式3重4階
築城者大友義鎮
主な城主大友氏、福原氏、太田氏、稲葉氏
築城年1556
廃城年1873
城址碑あり
案内板あり
現存建造物【現存】畳櫓、卯寅口門脇櫓【移築】山海荘主屋(御殿の一部)
再建建造物大門櫓
指定文化財県指定
遺構石垣、空堀、井戸跡、曲輪
現状史跡臼杵城址、臼杵公園、臼杵護国神社、卯寅稲荷神社
駐車場観光専用駐車場(無料)
最寄り駅JR 臼杵駅


城犬のおいど 攻城記録


大手口


古橋


城跡碑


古橋門櫓跡


亭櫓跡


鐙坂


鐙坂の落石防護壁の設置について


古橋から二の丸へ上るこの坂は、大友宗麟の時代に造られたもので、馬具の「鐙」に似ていることから、鐙坂と呼ばれています。この坂は非常に脆い阿蘓溶結凝灰岩(灰石)を掘り割って作ったもので、今までにもたびたび落盤を起こします。

現在でも、その危険があるため、皆様に安全に通行していただけるよう仮設の防御壁を設置しています。
※現地看板より

中門櫓跡


畳櫓


井楼櫓台石垣


正面に見える石垣は、臼杵城二の丸西南端に築かれた、他の櫓に比べかなり規模が大きかった井楼櫓の櫓台石垣です。西面石垣の高さは約四メートル、東面石垣の高さは約二メートルです。この石垣の西南隅は鞘石垣という、二重の角を持つもので、臼杵城ではここだけにみられる特徴です。

この石垣の角に積まれた角石は、本丸の天守台石垣と同じように、大きさや積み方が不揃いで、第二十二代当主 大友義統(宗麟の長男)が改易された後に入城した、太田一吉の頃である、1590年代に築造されたと考えられます。ここは臼杵城下を一望できる絶好の位置なので、奥まった位置にある天守の代わりとして比較的早い時期に櫓が置かれたと思われます。
※現地説明板より

時鐘櫓跡


大門櫓


大門櫓は、稲葉氏入城直後の17世紀初頭に建てられたもので、宝暦13年(1767)の大火で焼失した後、明和5年(1768)に再興され、明治初年の廃城に際して取り壊されるまで、その威容を誇っていました。復元にあたっては、現存する二基の櫓、宝暦大火以降の古絵図、明治初年の写真、

発掘調査の成果などを参考にし、楼門形式・二枚開戸・櫓部壁下見板張・入母屋屋根・塗込垂木など、廃城直前の形状とこの門の特徴である中央門柱後ろに控え柱を持たない独特の形状を再現しています。施工については、古建築の雰囲気を醸しだすよう地元の職人が伝統的工法を駆使して、可能な限り江戸末期の姿となるよう努めました。

この大門櫓復元をしのびつつ、この城郭史跡の保護と城下町景観の保全についてなお一層の理解と関心を寄せていただくことを願ってやみません。
※現地石碑より

井楼櫓跡


二之丸


佛狼機砲碑


空濠


鉄門跡


天守櫓跡


亀首櫓跡


卯寅口(井戸丸)


いわゆる「搦手口」と呼ばれるところで、井戸が設けられていたことから「井戸丸」とも呼ばれていました。本丸・二之丸があった場所は、かつて「丹生島」と呼ばれ、周囲を海に囲まれていました。卯寅口には海へ通じる「卯寅口門」や階段が設けられていました。緊急時はここから船を出して、海へ脱出することを考えていたようです。

「卯寅口」の名前の由来は、大友宗麟が築城時に「卯寅」の方角(ほぼ東北東)に向けて門を造ったからであると記録には書かれていますが、なぜ「うとのぐち」という読み方なのかは定かではありません。なお、港町側から現在の卯寅口明神への参道は、明治以降に新たに開削された道です。
※現地説明板より

卯寅口門脇櫓


卯寅口門脇櫓の外観は二層、内部は三重、外壁は漆喰下見張り、屋根は切妻屋根の櫓です。現在の櫓は、棟札から嘉永7年(1854年)に建てられたことがわかりましたが、17世前半の城絵図には既にその姿が描かれていることから、江戸時代の間に何度か建て替えられたと考えられます。

延宝4年(1676年)ごろの本丸御殿指図(当時の平面図)を見ると、「御鉄砲薬櫓」と記されており、その機能も時期によって変わっていったようです。
※現地説明板より

城道の変遷


現在、天守台につながるこの道、じつは江戸時代には、埋門と石垣が築かれ、天守方向へ通り抜けできませんでした。しかし、大友時代や太田時代(十六世紀末)には道は遮断されていませんでした。古橋口から鐙坂、帯曲輪、そしてこの道を通って天守の前の空堀まで進み、空堀の底を通って西之丸へと上がる城道になっていたことが資料に掛れています。

それを次に臼杵城主となった稲葉氏が、埋門と石垣を築くことでふさぎ、西之丸を通って、本丸へと向かう城道へと作り変えたのです。これは江戸時代に入り、城主の権威を見せるための行列が進みやすいよう道を広くとるなど、城の見栄えを重視するようになったことも一因と思われます。
※現地説明板より

西之丸御殿跡


この護国神社境内一帯には延宝3(1675)年、本丸にあった城主館(御殿)が老朽化したため、これを西之丸に新築した「西之丸御殿」がありました。現在、地上遺構は残っていませんが、居館庭園の池の一部が遺されています。それがこの護国神社前の池です。

この池は江戸期の居館庭園の池を埋めて小さくしたもので、一段低いところが江戸期の庭園地盤面です。また、この一帯では、大友期の遺物が多数見つかっており、大友期の主郭が設けられていたことが想像されます。
※現地看板より

臼杵市観光交流プラザ


スタンプ設置場所


続日本100名城スタンプ設置場所

2026/2最終訪問


城郭周辺地図

大分県臼杵市大字臼杵

観光専用駐車場(無料)


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