概要
萩城は、関ヶ原の戦い後に周防・長門へ移封された毛利輝元が1604年に築城を開始し、1608年に完成させた毛利氏の居城である。
指月山麓の本丸・二の丸・三の丸と山頂の詰丸からなる平山城で、五層の天守を備え、海や川を天然の堀として活用した強固な海城としての側面も併せ持つ。本丸御殿は藩主の居館と政庁を兼ね、萩藩の政治と軍事の中心として機能した。
1863年の藩庁山口移転後に役割を失い、1874年に建物が解体された。現在は石垣や堀、曲輪などが残り、萩城跡指月公園として整備、保存され国指定史跡となっている。
萩城は日本海へ張り出す指月山と、その南麓の三角州を利用して築かれた。指月山の北側と西側は海に面した急崖で、天然の要害として機能し、山頂には詰丸を置き、山麓には本丸・二の丸・三の丸を段階的に配置している。
本丸を中心に東・西・南へ二の丸と三の丸を展開する梯郭式の縄張で、内堀・中堀・外堀の三重の水堀によって城内外を区画した・海と山を組み合わせた防御性の高い立地である。
萩城は、関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元が、周防・長門の二ヶ国に減封された後、この二国を統治するための藩庁・居城として築かれ、萩藩の政治・行政・軍事の中枢を担った本丸には藩主御殿と政庁、二の丸・三の丸には家臣団の居住域や諸施設を配置し、城下町と一体となって藩政を支えた。指月山の詰丸は有事の要害として機能し、海に面した立地は監視と防御にも適していた。吉田松陰ら多くの志士を輩出した長州藩の拠点であり、明治維新へと繋がる重要な舞台となった。
1863年、毛利敬親が藩庁を山口へ移したことで萩城は政治的中心としての役割を失い、その後は機能が縮小した。1873年に政府から萩城払い下げ令が出され、1874年の廃城令に伴い、壮麗な天守や櫓、城門などの城郭建造物の大半が解体・売却された。明治以降、本丸には志都岐山神社が創建され、城跡は公園として利用されるようになった。1951年に国指定史跡となり、1967年には「萩城跡」として国の史跡に指定されている。近年は発掘調査が進み、2004年に「北の総門」や土塀が復元されるなど歴史的景観の保全が進む。石垣や堀、曲輪などの遺構を保存・活用する史跡公園として現在に至っている。
萩城跡は、近世初頭に築かれた毛利氏の本拠城として、山麓の平城と山頂の詰丸を組み合わせた城郭構造をよく残す・本丸・二の丸・三の丸の曲輪配置、三重の堀、石垣、土塁、天守台、井戸などの遺構から、近世城郭の築城技術と藩政拠点の空間構成を読み取ることができる・特に指月山の自然地形と人工的な防御施設を一体化した縄張は重要で、江戸初期の西国大名居城の成立過程を考えるうえで価値が高い・発掘や絵図・古写真との比較による調査も継続されている。
見蘭牛・萩のあまだい・夏みかん・萩のあじ・むつみ豚・ふぐ料理・長門の瓦そば
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | ハギジョウ |
| 別名 | 指月城 |
| 所在地 | 山口県萩市堀内字旧城1-1 |
| 100名城スタンプ | 第75番 萩城跡指月公園料金所 |
| 城郭構造 | 梯郭式海、平山城 |
| 天守構造 | 複合式望楼型5重5階 |
| 築城者 | 毛利輝元 |
| 主な城主 | 毛利氏 |
| 築城年 | 1604年 |
| 廃城年 | 1874年 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋門、土塀 |
| 再建建造物 | 北の総門 |
| 移築建造物 | 常念寺表門(伝・萩城城門)・明円寺山門(伝・萩城城門) |
| 指定文化財 | 国指定史跡 |
| 遺構 | 天守台・本丸・二の丸・三の丸・詰丸・石垣・水堀・土塁・井戸・櫓台・虎口・曲輪跡 |
| 現状 | 萩城跡指月公園 |
| 駐車場 | 指月第一駐車場・無料 |
| 最寄り駅 | JR山陰本線 東萩駅・萩循環まぁーるバス「萩城跡・指月公園入口」下車徒歩約3分 |

城犬のおいど 攻城記録
南門跡

毛利輝元公銅像
毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として安芸国吉田郡山城(現在、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。永禄6年(1563)父隆元の死去にともない家督を継ぎ、祖父元就の手によって養育された。織田信長や豊臣秀吉と覇を競い、中国地方8か国112万国を領有する大大名に成長し、天正17年(1589)広島に居城を築いた。

豊臣政権下では五大老の一人となり権勢を誇ったが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れ、周防・長門2か国36万9千石に削封された。慶長9年(1604)、居城を萩に選定し、同年11月11日、萩城に入城した。萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心した。寛永2年(1625)73歳で没し、萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた。
※現地説明版より


塩矢倉跡

萩城窯

極楽橋跡

説明版
萩城は関ヶ原の役後、毛利輝元が慶長9年(1604)築城に着手し、4年後の同13年(1608)に至って完成したものである。萩市街の西北隅、指月山(標高143m)の麓に位置し山名をとって指月城とも呼ばれた。山麓の平城と頂上の山城とを併せた平山城である。当時輝元は隠居していたが、その子初代藩主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。

以後代を重ねること13代敬親に至って幕末多端の国事を処理するに不便なため文久3年(1863)4月山口に移った。ついで明治7年(1874)建物の全てが解体された。本丸には高さ14、5メートルの五層の天守閣があったが、今はその台座のみ残っている。周囲には石塁を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と付属建物があった。この城は259年間防長両国政治の中心であり明治維新に大きな役割を果たした重要拠点でもあった。※現地説明版より

内堀

本丸御門(内御門)跡

合坂
城壁石垣と並行に登る石段で、萩城跡では多く見られます。
向かい合うようにV字に配置されたものもあります。


城壁跡(雁木)


指月山

五十間長屋(多門櫓)跡


本丸御殿跡

天守台跡
萩城は、関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元が防長二州・三十六万石の居城として慶長9年(1604)に起工し、同13年(1608)に完工した。白亜五層の天守は、高さ8間(14.4m)。初層平面規模は東西11間(19.8m)、南北9間(16.2m)、最上層は東西3間半(6.3m)、南北3間(5.4m)である。

初層は石垣全面にわたって半間分を張り出し、俯射装置(石落し)とした。明治7年(1874)に解体されるまでの270年間天守は、毛利氏13代にわたる萩城の象徴として偉容を誇っていた。
※現地案内看板より

天守跡
古写真によれば、五層五重の天守でした。1階部分の床は石垣よりも外に張り出しており、下から登ってくる敵を攻撃することができました。明治6年頃に解体され、天守台の石垣上には建物の柱の礎石のみが残っています。
※現地案内看板より





案内看板

西門跡



花江茶亭
三の丸にあった、13代藩主毛利敬親の別邸から、明治20年頃に移築した茅葺の簡素な茶室です。幕末の頃、藩主敬親と家臣は、この茶室で茶事をしながら倒幕の計画を練ったと言われています。
※現地案内看板より



志都岐山神社
毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳の5柱を祭神として、初代から12代までの萩藩歴代藩主が祀られています。


東園
東園は、萩城本丸の東北方向に位置し、二ノ丸内につくられた回遊式の庭園で、池の側には御茶屋もあった。萩藩の儒者山県周南が著した「東園記」によると、6代藩主毛利宗広(1717~1751)の時に、この地に古くからあった池を浚渫し、庭をつくって東園と成し、高い館を建てて園を総覧できるようにしたとある。

そして、7代藩主毛利重就(1725~1789)が監督を継いだ時も、旧に従いこの地を遊息の地とし、庭内の各所に六景二十勝の名称をつけ、その景観を装飾したという。なお、東園と名づけて整備される以前にも、この地には御花畠と称した庭園があり、御茶屋も建てられていた。
※現地説明版より






埋門跡

三摩地院櫓台跡





潮入門跡


二の丸土塀(銃眼土塀)
二の丸は東西153間、南北58間で、その内に13の矢倉、井戸34カ所、蔵元役所などがありました。東門から潮入門に至る土塁に城壁が続いておりましたが、この土塀は昭和40年春一部復元したものです。
※現地説明版より


本丸、二の丸の周囲は、敵の侵入を防ぐため、土塀で囲まれていました。土塀には「狭間」と呼ばれる穴が開けてあり、ここから外の様子を見たり、弓矢や鉄砲で近づいてくる敵を攻撃しました。昭和40年、潮入門の南側に、一部復元整備しており、当時の様子をうかがうことができます。
※現地案内版より

紙矢倉跡





東門跡



駐車場


2026/8最終訪問
城郭周辺地図
