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肥前国 大智庵城 [Daichian Castle]

概要

大智庵城は、室町時代後期に宗家松浦氏の本城として築かれた平山城である。延徳2年(1490年)に第14代松浦定が武辺城から移り築城した。相浦川南岸の丘陵を利用した堅固な城であったが、明応7年(1498年)に平戸松浦弘定の夜襲を受けて落城し、城主松浦政は自害した。現在は大智庵城址公園として整備されている。佐世保市瀬戸越の標高約70mの丘陵上に位置する。相浦谷と佐世保谷の峡央を占め、紋珠川が三方を取り囲むように流れ外濠の役割を果たした。北側は約70mの急崖で岩がむき出しとなり、天然の要害であった。大手門から後門まで約300mの規模を持ち、西側の紋珠岳(瀬戸越城)と水濠で結ばれていた。宗家松浦氏が北の平戸松浦氏や南の大村氏などの諸豪に備えるため、武辺城から本城を移した戦略的拠点であった。しかし築城からわずか8年後に平戸松浦弘定の夜襲(大智庵城夜討ち)により一夜にして落城。城主松浦政は自害し、妻子は平戸へ連行された。この落城により宗家松浦氏は一時没落した。
室町時代後期の宗家松浦氏の居城跡として、当時の平山城の構造を伝える貴重な遺跡である。松浦家所蔵の「大智庵城古図」により当時の縄張りが判明しており、本丸周囲の空堀跡や土塁が一部残存する。都市化により遺構の多くは失われたが、城に関する地名(城山・大門・屋舗間・城之口)が残り、歴史的価値を持つ。

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城郭詳細データ

項目内容
ヨミカナダイチアンジョウ
別名なし
所在地長崎県佐世保市瀬戸越
100名城スタンプ第-番 -
城郭構造単郭式平山城
天守構造なし
築城者松浦定
主な城主松浦氏
築城年1490
廃城年1498
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
再建建造物なし
指定文化財なし
遺構主郭・土塁・空堀
現状大智庵城址公園
駐車場駐車場あり・無料(大智庵城址公園駐車場)
最寄り駅松浦鉄道泉福寺駅から徒歩約5分


城犬のおいど 攻城記録


大智庵城跡公園入口


松浦丹後守政の墓


この墓は、松浦宗家第十五代政の墓と伝えられ、大智庵城跡の西方、紋珠岳麓の志賀神社から戦前に移したものである。完形の安山岩製宝篋印塔で、銘文はなく、塔身の四面に金剛界四仏を刻んでいる。

塔の様式は馬耳型宝篋印塔であるが、笠の隅飾が弧を描くことなく一枚の馬耳状となっているなど、その形態は著しい簡略化と変形が見られ、濃厚な地方色が認められる。同じ石材、形式が佐賀県地方に多く、佐賀県側で製作されたものと考えられる。

大智庵城は1498年(明応7)に平戸松浦氏に攻められ落城、政も戦死し、子の幸松丸は平戸方の捕虜となった。その後旧臣に救出され、宗家十六代親として旧領を回復、飯盛城を築いた。飯盛城は二度に亘り平戸から攻撃され、親は戦死者を弔うための事業を多く行っており、政の墓もこの時に建立された可能性がある。
※現地説明版より

松浦丹後守政の墓看板


大智庵城古図


ここは、宗家松浦氏の居城といわれている大智庵城の跡である。宗家松浦氏は今福、相浦、生月などの地を領して相浦の武辺城を居城としていたが、延徳2年(西暦1490年)第14代丹後守定のときに交通の要衝であったこの地に城を築いて移ったといわれている。

時代は、武将たちが土地を巡って厳しい争いを繰り広げていた戦国の世であり、この大智庵城も明応7年(西暦1498年)12月、平戸の松浦弘定の夜襲を受けて一夜にして落城。城主の宗家松浦氏第15代政は戦死し、その子の幸松丸は人質として平戸に捕らえられてしまった。以来、およそ500年の風雪にさらされた城は、わずかに空堀の跡を残すのみである。

だが松浦史料博物館に伝わる右の古図や城跡に建つ城主政の墓、これを取り巻く古墓群が、この城の悲劇と佐世保戦国史の一面を物語っている。
※現地看板より

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城郭周辺地図

長崎県佐世保市瀬戸越

大智庵城址公園駐車場


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