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武蔵国 岩槻城 [ IWATSUKI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナイワツキジョウ
別称岩付城、白鶴城、浮城
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類平城
築城者成田正等
築城年不明
廃城年1871年
主な城主成田氏、太田氏、後北条氏、大岡氏
指定史跡県指定
標高13.4 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物あり
復元建造物なし
遺構あり
現状岩槻城址公園
駐車場岩槻城址公園 第1駐車場
岩槻城址公園 第2駐車場
最寄り駅東武鉄道 岩槻駅


概要・現地案内板

岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。築城者については太田道灌とする説、父の太田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々です。
16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。
やがて天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。
同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となりました。
江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。
室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。
城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。
岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪が、沼地をはさんだ南側に新曲輪がありました。
主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むように大溝が造られました。
城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な城郭でした。
現在では城跡のなかでも南端の新曲輪・郷冶曲輪跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。
どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


岩槻城城門


この門は岩槻城の城門と伝えられる門である。岩槻城内での位置は明らかではないが、木材部分が黒く塗られていることから、「黒門」の名で親しまれている。門扉の両側に小部屋を付属させた長屋門形式の門で、桁行(幅)約13メートル、梁間(奥行)約三.七メートルである。屋根は寄棟造で瓦葺き。

廃藩置県に伴う岩槻城廃止により城内より撤去されたが、昭和45年(1970)城跡のこの地に移築された。この間、浦和の埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門などとして、移転・利用された。修理・改修の跡が著しいが、柱や組材、飾り金具などに、重厚な城郭建築の面影を伝えている。岩槻城関係の数少ない残存遺構として貴重なものである。
※現地看板より

岩槻城裏門


この門は岩槻城の城門である。岩槻城の裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかではない。現状では、門扉を付けた本柱と後方の控柱で屋根を支える薬医門形式となっている。間口約3メートル、奥行約2メートルであり、向かって左側袖塀に門扉左に潜戸を付属している。屋根は切妻造で瓦葺き。

左右の本柱のホゾに記された墨書銘により、江戸時代後期の明和7年(1770)に当時の岩槻城主大岡氏の家臣武藤弥太夫らを奉行として修造され、文政6年(1823)に板谷官治らを奉行として修理されたことが知られる。数少ない岩槻城関係の現存遺構の中でも、建築年代の明確な遺構として貴重なものである。

廃藩置県に伴う岩槻城廃止後、民間に払い下げられたが、明治42年(1909)以降、この門を大切に保存して来られた市内飯塚の有山氏から岩槻市に寄贈され、昭和55年(1980)岩槻城跡の此の地に移築された。なお、門扉右の袖塀はこの時付け加えられたものである。
※現地看板より

埼玉県指定史跡岩槻城跡


岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に築かれたといわれています。江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力譜代大名の居城となりました。戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。本丸・二の丸・三の丸などの城の中心部のある主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから構成されていました。

さらに城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家、寺社地からなる城下町が形成・配置され、その周囲を巨大な土塁と堀からなる大構が取り囲んでいました。この岩槻公園あたりは、そのうちの新曲輪部分にあたっており、その大部分が埼玉県史跡に指定されています。新曲輪は戦国時代の1580年代に、豊臣政権との軍事対決に備え、その頃岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防衛力を強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪という2つの曲輪が主郭部南方の防備を固めていました。

明治維新後、開発が進んで城郭の面影が失われている主郭部とは対照的に新曲輪部分には、曲輪の外周に構築された土塁、発掘調査で堀障子が発見された空堀、外部との出入り口に配置された2つの馬出しなど、戦国時代末期の遺構が良好な状態で保存されています。
※現地看板より

堀障子


現在地は、新曲輪と鍛冶曲輪との間の空堀である。 発掘調査の結果、堀底まで3m程度埋まっており、堀底には堀障子のあることが確認された。
堀障子は畝ともいい、城の堀に設けられた障害物のことである。堀に入った敵の移動をさまたげたり、飛び道具の命中率を上げることなどを目的として築かれたと考えられ、

小田原の後北条氏の城である小田原城(神奈川県)、山中城(静岡県)や埼玉県内の 伊奈屋敷跡(伊奈町)などからも見つかっており、後北条氏特有の築城技術とみられている。岩槻城跡では三基の堀障子が見つかっており、底そこからの高さ約90cm、幅が上で90cm、下で150cmあり、その間隔かんかくは約9メートルあった。この遺構発見で、堀が戦国時代の終わり頃に後北条氏 によって造られたことなど様々な事が判明した。
※現地看板より

城址碑


新曲輪


大手口


岩槻城大手門跡


本丸跡


岩槻城は、室町時代の末(15世紀中頃から後半)に築かれたといわれています。江戸時代には、江戸北方の守りの要として重要視され、有力譜代大名の居城となりました。城の西側と南側の一帯には武家屋敷と町屋、寺社地などからなる城下町が形成・配置され、その周囲を巨大な土塁と堀からなる大構が取り囲んでいました。

 

この付近は、岩槻城の本丸跡にあたります。本丸は城の中心部で、厳重な防備が施されるとともに、藩政の中心となっていました。ほぼ正方形の外周を高さ6m前後の土塁が取り囲み、南西・南東両隅と南辺に張り出した枡形の三か所に櫓が配置され、さらに枡形に開いた出入口には二階建ての櫓門が設けられていました。
※現地看板より

2025/8最終訪問


城郭周辺地図

埼玉県さいたま市岩槻区太田

岩槻城址公園 第1駐車場までのGoogleMAP


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