概要
筑前国と肥前国を結ぶ要衝に位置する中世山城。鎌倉時代末期~南北朝時代初期に築城されたとみられ、大宰府防衛の拠点として戦略的に重要視された。少弐氏と大友氏の抗争、戦国時代には秋月氏、高橋氏、立花氏らが争奪を繰り広げた。主郭、二の丸、三の丸などの曲輪群、堀切、土塁、竪堀などの遺構が良好に残る。那珂川市指定史跡である。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | タツカミヤマジョウ |
| 別名 | 岩門城、城山 |
| 所在地 | 福岡県那珂川市大字上梶原 |
| 100名城スタンプ | - |
| 城郭構造 | 連郭式山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城者 | 伝少弐氏 |
| 主な城主 | 少弐氏・大友氏・秋月氏・高橋氏・立花氏 |
| 築城年 | 鎌倉時代 |
| 廃城年 | 1587年 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 再建建造物 | なし |
| 指定文化財 | 市指定 |
| 遺構 | 曲輪・土塁・空堀(堀切・横堀・竪堀) |
| 現状 | 山林・史跡公園 |
| 駐車場 | あり・岩門城跡登山口駐車場・無料 |
| 最寄り駅 | 西鉄バス「山田」バス停 |

城犬のおいど 攻城記録
登城口

少弐景資公之像

龍神山城(岩門城)
龍神山城(たつかみやまじょう)は、龍神山(195m)に築かれた山城であり岩門城(いわとじょう)とも云う。通称は城山(じょうのやま)と呼ばれている。宝永6年(1709年)、

貝原益軒著「筑前国続風土記」や寛永10年(1798年)、加藤一純や鷹取周正編纂の「筑前国風土記付録」には、龍神山城と記されている。岩門城の呼称は、岩門庄の城「岩門城」が中世の文書には登場している。江戸時代の肥前藩士犬塚盛純著「歴代鎮西志」は「北条義時、三浦義澄先駆として諸方惟能前登は岩門に向かう。大宰少弐種直は岩門城を似て要害をなし大いに源氏に向かい防折す。

種直二男敦種曰く、岩門城は二月三日没落せり」と記している。また、岩門合戦の条に「太宰豊前守盛氏岩門城に居り、蒙古合戦の功を募り纂嫡の意あり」と記述したことから、同書が世間に有名となり岩門城が広汎に流布された。ちなみに、「太宰少弐種直の岩門城」の比定地は、内田丘陵地との説がある。

文永11年(1274年)、文永の役で少弐景資は、九州侍大将として最前線で戦い馬上の元軍副令官劉復亨を射落し、重傷を与えたので元軍は引き上げた。元軍の再来襲に備えた日本は、石築地(いしついじ)を築き防備を固めた。弘安4年(1281年)、弘安の役で元軍は、総攻撃を前に東路軍と江南軍を長崎県松浦市鷹島湾に合流させ停泊した。このときに台風(神風)が吹いて、日本は勝利する。

太宰少弐であった少弐資能は、二度の元寇で鎮西総大将として最前線で戦った。資能の嫡男で太宰少弐職の少弐経資は、長男資時を壱岐島での戦いで失い、父資能も老齢にもかかわらず敵兵との激闘のすえ負傷し、その傷がもとで死亡した。その後元の皇帝フビライは、日本侵略をあきらめず、第3回目の元寇を進めるとの動きを察知した鎌倉幕府は、

弘安5年(1282年)、「鎌倉侍所沙汰」を発布し元軍の侵攻に備えて、岩門庄の龍神山城と大宰府に浦ノ城を築城した。同年完成後に景資(豊前守盛氏)は、入城したと思われる。弘安8年(1285年)11月17日、鎌倉で起きた霜月騒動の余波を恐れた鎌倉幕府は、岩門合戦を起こし景資を山田盆地の龍神山辺りで誅殺した。寺山田には、少弐景資の墓と伝えられる五輪塔が祀られている。
※現地説明板より


堀切




三の曲輪
曲輪Ⅲは、曲輪Ⅱの西から南下段に位置し、平坦面の面積は約780㎡。状況の平坦面の標高は185~190mで曲輪Ⅱとの比高差は2~3mしかなく、更に堀切などが付設しないことから一連の空間と捉えられる。

又、南北に延びる平坦面には若干の段差が認められ、それ以南には両側縁に土塁基底部の痕跡を残している。
※現地看板より


二の曲輪
曲輪Ⅰと幅約24mの大規模な堀切をはさみ南側に位置する。標高は192m、曲輪Ⅰより3mほど低い。上部平坦面の面積は約140㎡。
※現地看板より


堀切



主郭




北の郭



眺望






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