概要
持永城は、佐賀県小城市牛津町乙柳に所在した中世の平城である。南北朝期に九州探題として下向した今川了俊(いまがわ りょうしゅん/貞世)がこの地に探題府を構えたことに始まり、その後、子孫が在地武士として根を下ろし、戦国期には持永盛秀(もちなが もりひで)の居城として知られた。現在は城郭としての遺構は失われているが、「今川持永城本丸趾」と刻まれた石碑と持永盛秀の墓が静かに往時を物語り、肥前今川氏から持永氏へと続く系譜と、肥前千葉氏・龍造寺氏・鍋島氏らの狭間で生きた一族の歴史を感じさせる場所となっている。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | モチナガジョウ |
| 別名 | 牟田城、今川城 |
| 所在地 | 佐賀県小城市牛津町乙柳 |
| 100名城スタンプ | - |
| 城郭構造 | -平城 |
| 天守構造 | なしなし |
| 築城者 | 今川了俊 |
| 主な城主 | 今川氏、持永氏 |
| 築城年 | 応永年間 |
| 廃城年 | 不明 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | なし |
| 現存建造物 | なし |
| 再建建造物 | なし |
| 指定文化財 | 未指定 |
| 遺構 | なし |
| 現状 | 宅地、田畑 |
| 駐車場 | 付近に駐車場なし |
| 最寄り駅 | JR 久保田駅 |

城犬のおいど 攻城記録
持永城跡
南北朝時代、南朝方の勢力が強かった九州に応安4年(1371)、北朝方の今川了俊が九州探題として下向し、翌年南朝方の大宰府を攻め落とした後、九州の南朝方を制圧していきました。了俊は九州探題を25年間勤め、応永2年(1395)に今川城(のちに牟田城、持永城と呼ばれる)に集結して、仲秋(頼泰)、貞臣(義範)などとともに京都へ帰りました。

このことから、乙柳には今川了俊の拠点が置かれていたと考えられています。現在、持永城の遺構として確認できるのは城跡とされる中央付近に南北15m、東西7~16mを測る平面台形状の土壇があり、その上に持永盛秀の墓所と伝わる自然石碑があります。この土壇自体は曲輪の残部と考えられます。また、北側30mの位置に周囲よりも2m程高い土地があり、元々この一帯で最高所を占めていて「ヤマジロ」という通称地名が残っています。

昭和前期の郷土史家・伊東祐治氏はこの高まりから南に向かって持永盛秀墓所を内包する南北に長い高畑があったと証言していて、これが持永城の本体であると説いています。更に明治22年(1889)地籍図と米軍撮影写真との対比から現地での地形変化を復元すると、南北125m×東西135mの平面方形を基調とした城の敷地が推定できます。
※現地案内板より

2026/2最終訪問
城郭周辺地図
付近に駐車場なし
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