概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 水堀あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
津村城(津村城跡)は、福岡県大川市大字津(旧・三潴郡大川町大字津)の筑後川下流東岸に広がる低平地・クリーク地帯に築かれた中世平城(館城)跡である。『福岡県の中世城館跡』等の埋蔵文化財包蔵地台帳に登載されている。有明海に注ぐ筑後川河口デルタ地帯の微高地に占地し、四周に縦横無尽に巡らされた堀割(クリーク網)を天然の水堀・水運路として巧みに取り込んだ水郷特有の方形館の形態をとっていた。後世の圃場整備や宅地化、市街地化によって明確な土塁や高低差などの地表面遺構は失われているものの、集落の区画や現存する農業用水路・堀割の流れに往時の方形館を取り巻いていた水濠の名残を留めている。
歴史的役割
室町時代から戦国時代にかけて、筑後国三潴郡津村を治めた在地武士・津村氏の居館として築かれたとされる。津村氏は柳川城を本拠として筑後南部に覇を唱えた有力国人領主・蒲池氏の一族あるいは有力被官として組み込まれ、筑後川水運の河口港湾機能や渡河点を掌握する重要な軍事・経済拠点として機能した。天正年間における大友氏の衰退に伴う肥前・龍造寺隆信の筑後侵攻や、天正9年(1581年)の蒲池鎮並謀殺事件などの動乱期においても在地防衛の一端を担った。天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定および立花宗茂の柳川入封の過程で領主権の再編が行われ、役目を終えて廃城・帰農したと伝えられる。
見どころ
集落周辺に網の目のように張り巡らされたクリーク(水堀名残)の景観、筑後川下流域の河川舟運を扼した中世水郷館城の立地特性、近隣の大川樟風高校周辺や住宅地に残る地割痕跡、木工の街・大川の基礎となった筑後川河口特有の歴史的風情、国指定重要文化財の筑後川昇開橋など近接する水運史跡群
ご当地グルメ
大川うなぎのせいろ蒸し、エツ料理(初夏限定)、有明海苔、筑後うどん、柳川鍋
城犬のおいど 攻城記録
津村城跡
津村城跡は、戦国時代に24町を治める国衆(地侍)であった津村氏の城があったところです。堀に囲まれた「字城跡」・「字二ノ丸」を中心に、二重~三重の堀を巡らせて外敵の侵入に備えていたことが、今も地割や地名などから読み取ることができる貴重な戦国遺構です。また、城の北側には城主ゆかりの八幡神社や、城主ゆかりの仏像を安置していた医徳寺などがあります。

当時、筑後では200家におよぶ国衆同士がしのぎをけずっており、津村氏は豊後の戦国大名である大友氏の配下として、覇権争いに動員されました。天正2(1574)年に、龍造寺隆信が筑後に侵入し、最初の標的となったのが津村城でした。深堀大膳率いる二千の大軍の猛攻を受けて津村城は落城し、城主の津村大助秀門は討死しました。※現地教育委員会看板より

津村八幡神社

神脇








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