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武蔵国 川越城 [ KAWAGOE CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナカワゴエジョウ
別称河越城、初雁城、霧隠城、霧吹き城
スタンプ設置場所川越城本丸御殿受付 09:00-17:00(月曜定休)
曲輪配置梯郭式
城郭種類平山城
築城者太田道真・道灌
築城年1457年
廃城年1870年
主な城主扇谷上杉氏、後北条氏、酒井氏、堀田氏、長沢松平氏
指定史跡県指定
標高16.4 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物あり
復元建造物あり
遺構あり
現状史跡川越城跡
駐車場市立美術館・市立博物館・川越城本丸御殿専用駐車場(無料)
最寄り駅東武鉄道 川越市駅


概要・現地案内板

川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の命により、太田道真・道灌父子らによって築城されました。
戦国時代になると後北条氏が武蔵に進出し、天文15年(1546)の河越合戦で北条氏康は扇谷上杉朝定に勝利し、以後川越城は後北条氏の支配下となりました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと、関東は徳川家康の領地となり、川越城には重臣酒井重忠が配置されました。特に三代将軍家光の代、城主となった松平信綱は城を拡張し、本丸、二ノ丸、三ノ丸といった各曲輪等を構えた総面積98976坪(約326000㎡)余りの規模を持つ城郭になりました。
弘化3年(1846)、二ノ丸で火災があり、御殿が焼失したため、城主松平斉典は2年後の嘉永元年(1848)9月に御殿を本丸に再建しました。
明治維新を迎えると、川越城は解体が始まり、曲輪等は宅地や学校等に利用されましたが、御殿の一部は川越県庁や入間郡公会所といった公共施設に利用され、解体を免れたため、現在も東日本に唯一残る御殿建築として、また歴史ある川越の表玄関として威風を放っています。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


城址碑


本丸跡


案内看板


北門・土塁


本丸御殿の北側には、土塁と堀が築かれており、本丸と二ノ丸を隔てる北門が設けられていました。発掘調査では、堀跡から粘土やローム等を何層にも重ねて叩き締めながら積み上げた版築層を確認しました。

本丸御殿


スタンプ設置場所


日本100名城スタンプ設置場所

使者詰所


番抜・老体詰所


物頭詰所


本城住居絵図


広間


正面に大きな壁をもつ床の間が設えられた36畳の座敷です。

杉戸


建具として入れられた杉戸は、藩の御用絵師船津蘭山が描いたもので、当時は廊下の間仕切りに使われていた。
※現地説明板より

三芳野神社


三芳野神社は、平安時代の初期に成立したと伝えられ、川越城内の天神曲輪に建てられて。この為、「お城の天神さま」として親しまれている。この天神さまにお参りするには、川越城の南大手門より入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、

東に向う小道を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしていた。この細い参道が、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発生の地であるといわれ、現在でも静かな環境を保持しており、伝説の豊かな地である。なお、参道は、江戸時代より若干変化している。
※現地看板より

川越城田曲輪門跡


川越城富士見櫓跡


御嶽神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、

南西の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守の代わりとなっていたと思われる。今日では木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、

正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応2年(1866)に川越城を測量した時の記録によれば、この富士見櫓は長さ8間3尺(約15メートル)、横8間(約14メートル)あったと記されている。
※現地看板より

川越城は、長禄元年(1457)に太田道真、道灌父子によって築城され、上杉氏6代、北条氏4代の持城であったが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものであった。江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、8郭・3櫓、12門をもつ徳川家の親藩、譜代の大名の居城として有名であった。

しかし、明治維新後、堀は埋められ、土塁は壊されて、現在では富士見櫓の跡と、本丸御殿の一部が残るのみとなった。富士見櫓は築城当初に、本丸西南の隅櫓として建てられた三重の櫓で、城内第一の高所として天守の代わりをつとめた。
※現地看板より

川越城中ノ門堀跡


川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。天文6年(1537)、

小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、

川越城は近世城郭としての体裁を整えるにいたりました。寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭としての体裁を整えるにいたりました。中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多賀谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。
※現地看板より

中ノ門堀のしくみ


中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から堀内に攻め込んだ場合を想定して造られています。西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。

また、発掘調査では城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60°西側は35°でした。つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備工事をおこないました。
※現地看板より

2024/12最終訪問


城郭周辺地図

埼玉県川越市郭町

市立美術館・市立博物館・川越城本丸御殿専用駐車場(無料)のGoogleMAP


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