城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | カメダジョウ |
| 別称 | 天鷺城、亀田陣屋 |
| スタンプ設置場所 | ー |
| 曲輪配置 | - |
| 城郭種類 | 平山城 |
| 築城者 | 岩城吉隆 |
| 築城年 | 1623年 |
| 廃城年 | 1868年 |
| 主な城主 | 岩城氏 |
| 指定史跡 | |
| 標高 | 28.8 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | あり |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 亀田城佐藤八十八美術館 |
| 駐車場 | 亀田城跡 駐車場(無料) |
| 最寄り駅 | JR 羽後亀田駅 |

概要・現地案内板
亀田城は、亀田城陣屋、天鷲城とも呼ばれ、現在、亀田陣屋跡には亀田城佐藤八十八美術館が建てられています。戦国時代、由利十二頭の赤尾津氏によって統治されていました。
関ヶ原の戦いでは最上氏に属して東軍として参戦し、由利郡は最上氏が統治することとなりました。
元和8年(1622年)に山形藩主最上氏が改易されると、由利郡は本多正純の所領となり、翌年に本多正純も改易となったため由利郡は亀田藩・本荘藩・仁賀保藩・矢島藩に分割され亀田藩に岩城吉隆が入り亀田陣屋(のちの亀田城)が築かれました。
幕末になると、8代藩主岩城隆喜の代で城主格となり亀田陣屋は亀田城と呼ばれるようになりました。
その後、12代藩主岩城隆邦の際に新政府軍と旧幕府軍の争い戊辰戦争が起こると、奥羽越列藩同盟で亀田藩は旧幕府軍に属していたが、久保田藩とともに奥羽越列藩同盟を抜けて新政府軍に属すると、庄内藩から攻められた亀田藩は再び旧幕府軍に戻ると、久保田藩(新政府軍)から攻められ、亀田城は焼失しました。
城犬のおいど 攻城記録
東門



模擬門


亀田城佐藤八十八美術館


薬王寺館
土蔵風のたたずまいのギャラリーでは、書、絵画、工芸品など、さまざまな美術展を開催しています。展覧会や個展の会場としてご利用ください。
※現地看板より

惣助亭
約160年前にたてられた農家をそのまま移築したもので、広い土間や大黒柱などが、いにしえの時を偲ばせてくれます。また、お休み処惣助亭として、お抹茶の呈茶も行っています。
※現地看板より

深山軒
重厚な梁と黒光りする太い柱は、歴史のおもかげを残しています。
※現地看板より

駐車場


天鷲村

天鷲城


佐々木家(農家)
県内の日本海側に多い片中門造り民家で、泉田より移築。造りは江戸時代後期の農家の様式をよく継承している。佐々木家は、慶長の頃加賀国から移住したと伝えられ文政に入り泉田に分家し三代まで泉田の肝煎役を勤めた。一族には、明治期乾田を実施、また桑を植え養蚕を奨励指導した篤農家佐々木庄吉がいる。
※現地看板より


遠藤家(武家屋敷)
松村家は代々大坪流馬術師範を以って藩主に仕えた家柄で元文4年(1739)には28石余、嘉永4年(1851)には10人扶持の禄高であった。藩校長善館の最後の学正松村英游を出した向学の家で松村文庫全495冊が保管されている。昭和18年以後遠藤家の所有となっていたが昭和54年に町が譲り受け愛宕町字徒士町から引き家し移築したものである。

武家住宅としての特徴をよく残し、特に座敷雪隠は珍しい構造である。
※現地看板より

鎌田家(鍛冶屋)
鎌田家は由利12頭の赤宇津時代から鍛冶職を家業としてきた旧家。この家屋は鍛冶町から移築したもので、萱葺の屋根であったが、銅板葺にかえている。御抱え鍛冶となったのは、初代藩主吉隆公の時からで、どんぶり鍛冶の愛称で呼ばれ代々御抱え鍛冶として4人扶持を与えられていた。天明の文書に役銀年三両と記録されている。
※現地看板より

2024/7最終訪問
城郭周辺地図
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