城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | タケダシヤカタ |
| 別称 | 武田館 |
| スタンプ設置場所 | ー |
| 曲輪配置 | - |
| 城郭種類 | 平山城 |
| 築城者 | 武田義清 |
| 築城年 | 平安時代 |
| 廃城年 | 不明 |
| 主な城主 | 武田氏 |
| 指定史跡 | 不明または未指定 |
| 標高 | 22.6 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | あり |
| 遺構 | なし |
| 現状 | 湫尾(ぬまお)神社、武田氏館 |
| 駐車場 | 武田氏館駐車場 |
| 最寄り駅 | ひたちなか海浜鉄道 工機前駅 |

概要・現地案内板
平安時代末期(12世紀初め)に、八幡太郎源義家の弟新羅三郎義光は、常陸国へ進出を図ったが、那珂川以南の地がすでに常陸平氏の支配下にあったため、長男の義業を久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に、三男義清を那賀郡武田郷(本市武田)に配置して、那珂川以北に勢力の拡大を図ろうとしました。
義清は、眼下に那珂川を望む武田台地の突端に居館を構え、武田の郷名をとって初めて武田氏と称し、「武田冠者」と名乗りました。
義清とその子清光は、勢力拡張をあせって行き過ぎの行為があったため、甲斐国に配流となり、子孫は甲府盆地一帯に勢力を広げ、義清は甲斐武田氏の祖となりました。
武田氏館は、このような由緒のある地に、「ふるさと創生事業」の一環として、昔の絵巻物などを参考にし、当時の武士の館を再現したものです。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
湫尾神社

甲斐武田氏発祥の地
源頼義の長子八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は、後3年の役(1083~1087)に際し兄義家軍への参加や、常陸介に任ぜられて東国常陸への赴任を通じて、早くから在地勢力と提携し、常陸大掾平氏と縁戚関係を結んで、常陸進出の野望を着々と実現していった。

義光には、義業、実光、義清、盛義、親義らの数子があったが、まず、長子義業を、常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着させ常陸進出の拠点とした。一方、三男義清を、常陸国吉田郡武田郷(勝田市竹田)に配して勢力の扶植をはかった。ここが甲斐武田氏発祥の地である。義清は刑部三郎と称し、武田郷の地名をとって初めて武田氏を名乗り武田冠者と呼ばれた。この義清が甲斐武田氏の始祖となったのである。

「武田系図」によると、義清は上野源兼宗の女を妻とし清光をもうけている。「長秋記」によれば、大治5年(1130)12月30日の条に「常陸国司、住人清光濫行の事などを申すなり、子細目録に見ゆ」と記されている。12世紀初めの武田郷周辺の地は在地豪族の間で互いに勢力を張り合っていたが勢力拡張をあせる義清、清光父子にゆき過ぎの行為があった。そのため吉田郡地方に隠然たる勢力をもつ常陸大掾の族吉田清幹らに疎外され「清光濫行」として告発された。

その結果、義清、清光父子は告発された直後、甲斐国市河荘に配流となった。義清の曾祖父頼信、祖父頼義、父義光と三代にわたって甲斐守に任ぜられ、清和源氏と甲斐とは密接な関係にあった父祖ゆかりの地に土着し、新天地を開いて甲斐源氏発展の基盤を築いた。名将武田信玄は義清から18代目にあたる。
※現地看板より

武田氏館


厩








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