概要
延岡城は慶長期に高橋元種が築いた日向国の代表的近世城郭。二大河川に囲まれた天然の要害と総石垣の組み合わせが特徴で、とりわけ二の丸下の高石垣は「千人殺し」の異名で知られる(石を引けば崩落させ得るという後世伝承を伴う)。有馬期の大改修で御三階櫓・二階櫓門を備えたが、御三階は天和年間の火災で焼失。明治に廃城後は公園化され、本丸天守台の鐘は今も市中に時を告げる。現在は北大手門の木造復元、続日本100名城の選定、三階櫓復元可能性の検討、3D復元CGの公開など、保存と活用の両面で整備が進む。
城郭詳細データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | ノベオカジョウ |
| 別名 | 縣城、亀井城 |
| 所在地 | 宮崎県延岡市東本小路 |
| 100名城スタンプ | 第195 城山公園二の丸広場管理事務所前 |
| 城郭構造 | -平山城 |
| 天守構造 | 御三階櫓層塔型3重3階 |
| 築城者 | 高橋元種 |
| 主な城主 | 高橋氏、有馬氏、三浦氏、牧野氏、内藤氏 |
| 築城年 | 1603 |
| 廃城年 | 1870 |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | 【移築】常念寺本堂(書院造の一部) |
| 再建建造物 | 北大手門 |
| 指定文化財 | 市指定 |
| 遺構 | 石垣、土塁、空堀、曲輪 |
| 現状 | 史跡延岡城址、城山公園 |
| 駐車場 | 延岡城(城山公園)北駐車場(無料) |
| 最寄り駅 | JR 延岡駅 |
城犬のおいど 攻城記録
北駐車場

北櫓跡
北櫓跡は、本城の北側にあった内堀(水堀)に突き出すように築かれた櫓台ですが、絵図等に建物等は描かれていません。櫓台の石垣は、大小の野面石・割石を用い、「野面積み」で積まれています。

出角は長辺と短辺が交互になるよう積み上げる「算木積み」で積まれており、角石の短辺を内側に入れ込む「ヤセ角」と呼ばれる、古い技法で積まれています。築城時そのままの様相を残しています。
※現地説明板より

案内板

北大手

内藤家墓所

北大手門石垣
本城の玄関口である大手門の東面石垣は、大小不揃いの割石を用い、横目地が通らない「乱積み」で積まれています。出角は、長辺と短辺が交互になるよう積み上げ、角石と角脇石からなる「算木積み」で積まれており、上部は緩やかな反りを持っています。また、この石面には、400個以上の「刻印」が残っています。

これらは有馬家が携わった、元和6年(1620)から寛永5年(1628)の徳川大坂城天下普請の有馬家普請丁場周辺でみられる刻印に類似点が多く、大坂城築城に関わった技術者が延岡城の北大手門周辺石垣の構築を行った可能性が考えられます。この時期は有馬家が延岡城の大改修を行ったとされる時期(承応2年(1653)から明暦元年(1655))よりも古く、有馬家が延岡へ入封したすぐ後に、北大手門周辺を改修したことが想像されます。
※現地説明板より

北大手門
北大手門は、延岡城本城に入る登城口の1つで、城の表門にあたります。北大手門の周辺は、石垣だけが残る状態でしたが、昭和63年(1988年)に、都市景観形成モデル都市に指定されたことを受け公園整備がスタートし、北大手門の復元整備を行うため、平成4年(1992年)に発掘調査を行いました。

調査の結果、多くの絵図に描かれているとおり、門礎石を置く根固め基礎や、番所跡が確認されました。また、絵図にはありませんが平瓦を敷いた排水溝が確認されました。北大手門は、発掘調査で確認された門礎石を置く根固め基礎から四脚門と判断しました。門の袖塀は、東側の石垣に残るホゾ穴や、屋根型の彫り込みがが確認されたことから位置を決めています。

また、文化13年(1816年)の「日向国延岡御本城要害絵図」、明治維新前後(1868年前後)の「延岡藩士族屋敷図」等の絵図も参考に復元しています。北大手門を挟み南北に走る排水溝や、本城内へ上る階段も発掘調査を基に同じ位置に復元しています。
※現地説明板より


千人殺し
ここの石垣は千人殺しと呼ばれ、敵が攻め入った時に石垣の一部をはずすと崩れ落ち、一度に千人を殺すと言い伝えられています。
※現地看板より

千人殺しの石垣
この石垣は、一番下の根石を外すと石垣全体が一度に崩れ、「千人の敵兵を殲滅する」と言われ、通称「千人殺しの石垣」と呼ばれています。石垣は法長約22m、高さ約19mあり、熊本城宇土櫓台、小倉城天守台に次ぐ九州屈指の規模を誇り、宮崎県唯一の高石垣です。

石垣の積み方は、自然の石をそのまま使用する「野面積み」を主体とし、隅角部は細長い直方体の石を長辺・短辺が互い違いになるよう積み上げ強度を高める「算木積み」、石垣上部は、当時の最先端技術である石垣に勾配をつける「反り」の技法が用いられています。石垣に用いられている築石には、矢穴や刻印がありますので、じっくりと観察してください。隅角部にあるコンクリートは、昭和10年の昭和天皇行幸の際に補強されたものです。
※現地説明板より

管理事務所

スタンプ設置場所
続日本100名城スタンプ設置場所

パンフレット置き場
攻城団チラシもこちらにあります。

二ノ丸
明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図」によると、この位置が二ノ丸となっている。
※現地標柱より




二階櫓の台石垣
本丸の西側に築かれた櫓台で、築城時のまま残る構築物。
※現地説明板より

二ノ丸広場(西側石垣)
慶長8年(1603年)に、初代藩主高橋元種が築城した延岡城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸の合計5区画(曲輪)から構成されています。現在地の二ノ丸は本城で最大の広さ(約5000㎡)があり、発掘調査により、江戸時代の石組み排水溝もしくは通路、瓦だめ(瓦類の破棄穴)等が確認されています。

また、城内で最大の井戸が現存しており、本城で主要な曲輪であったと考えられます。二ノ丸西側の石垣は、自然石を積む「野面積み」、角石は「算木積み」で構築されており、築城時の様相を残しています。ここは、現在、櫓台となっていますが、絵図史料を見ると、上部の築石(5~6段)で石材の違いが見られることから、積み足しが行われ櫓台を築いた可能性が考えられます。

二ノ丸には、昭和26年(1951年)に児童遊園地が開園し、動物園がありました。昭和63年(1988年)に閉園するまで、市民の憩いの場として親しまれました。
※現地説明板より




二階櫓跡
ここは延岡城の西方を守る位置にあたり、有馬氏時代(1670年代)の「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(明治大学博物館所蔵)によると、二層二階構造の二階櫓が描かれています。高さは不明ですが、南北5間(約10メートル)、東西4間(約8メートル)、40坪(20畳)の広さを持つ櫓でした。

二階門(櫓門)や長坂門とともに明治6年(1873年)の廃城令により取り壊されるまで残っていた数少ない建築物の一つです。一重目に入母屋破風と軒唐破風、北と西に出窓石落を持ち、二重目の屋根に入母屋破風と軒唐破風を施した姿は現存する江戸城伏見櫓と類似の外観だったことが、宮崎県指定有形文化財「延岡城下図屏風」(一社)きよたか美術館所蔵)からも見てとれます。

内藤氏時代の文久2年(1862年)に製作された木組み雛形(模型)が、教育委員会に保存されています。
※現地説明板より




二階門(櫓門)跡
二階門(櫓門)は、千人殺し石垣西側の長坂門から本丸までの経路を護る「内枡形門」で、二階部分が櫓、下部が開閉式の門になっていました。門の大きさは、南北3間(約6m)、東西8間半(約17m)あり、城内では三階櫓に次ぐ規模の建物でした。

突入して来る敵兵をここで迎え討つために設けられ、背後の本丸を守護する堅固な防御施設でした。1998年(平成10年)に発掘調査を行った結果、櫓門の柱を載せる根石跡が検出されていました。現在、園路面にある四角い石は、その根石跡の場所になります。
※現地説明板より

本丸跡







天守台跡
ここは有馬氏時代に製作された「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(明治大学博物館所蔵)では、「天主台」と記されていますが、天守は描かれていません。しかし、慶長年間の「日向国絵図」(臼杵市教育委員会所蔵)には、望楼型の三重天守が描かれています。

このことから天守が存在したという可能性も否定できませんが、平成6・7年(1994・1995年)に発掘調査を行った結果では、天守の存在を示す資料は得られませんでした。明治初年頃の絵図には鐘撞堂の前身となる太鼓櫓があったとされますが、同10年(1877年)に西南の役で焼失。翌11年(1878年)、有馬氏時代に今山八幡宮に寄進された梵鐘が天守台に移設され、以後、現在も鐘守の手によって時を告げる鐘の音が鳴り続けています。

なお、現在の鐘は二代目にあたり、昭和38年(1963年)の市制施行30周年記念事業で鋳造・設置されたものです。初代の鐘は、教育委員会に保存されています。
※現地説明板より

鐘撞き堂
この場所は、領内に火災等を知らせるための太鼓櫓がありましたが、明治10年(1877年)の西南の役で焼失し、その後、跡地に鐘楼が設置され、翌11年(1878年)から時報の鐘が撞かれるようになりました。これが「城山の鐘」の始まりであり、今日も鐘守の手によって続けられています。

現在の鐘は二代目であり、初代の鐘は、明暦2年(1656年)、有馬康純公が今山八幡宮に寄進したもので、鐘に刻まれた「延岡」の文字が地名の由来を表す最古の資料となっています。一日も欠かすことのない鐘撞きは延岡の伝統といえる存在ですが、戦時中に金属不足のため鐘が供出されそうになる危機が二度あり、一度目は西南の役、二度目は第二次世界大戦中で、

空襲警報等のサイレンが故障した時の代替施設として鐘が必要だと当時の市議会が要望し、なんとか供出を免れたといいます。
※現地説明板より





三階櫓跡
三階櫓は、関東周辺の譜代大名を中心に造られた「天守代用三階櫓」と同様、延岡城の天守とみなされた本城を代表する建築物で、城内で一番大きな建物でした。櫓の1階部分は、東西5間(約10m)、南北6間(約12m)の広さで、高さは、土台下から7間5尺9寸(約15.6m)ありました。

明暦元年(1655年)有馬康純公の修築により完成しましたが、天和3年(1683年)(一説に天和2年(1682年))に武家屋敷からの出火で焼失し、以後再建されることはなく、現在は、櫓台の石垣が当時の姿のまま残っています。
※現地説明板より


吹上坂
吹上坂は、三ノ丸から本丸へと続くつづら折れの通路で、有馬氏時代に描かれた「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(明治大学博物館所蔵)に、この吹上坂は描かれています。以降、三浦氏、牧野氏、内藤氏時代に描かれた絵図でも吹上坂は確認することができます。

この場所は、延岡城の天守とみなされた三階櫓跡の西側直下にあたり、三階櫓跡の岩盤掘削面と石垣面とを上手く組み合わせて通路の壁面を構成しています。石垣は、見栄えを重視したと考えられ、一定の大きさに備えた割石を用い、横目地の通る「布積み」で積まれています。また石面は、ノミによる「ハツリ」が施され平面的に整えられています。吹上坂の石垣は、城内の他の石垣とは違った美しさが見られ、有馬家により大改修されたと考えられます。
※現地説明板より


三ノ丸跡

石御門跡
ここは、城山公園南駐車場から延びる登城道を登った地点にあり、岩盤を削った「切通し」に門が造られていました。絵図では「石御門」や「石門」と記されており、両側に岩肌が露出していることからこの名称が付けられたと推測しています。

ここは、城の表門(北大手門)に対する裏門(搦手門)にあたり、戦時は落城の際の逃げ口として、平時は通用門として使われていました。石御門の南側真上には三階櫓、北側には白漆喰塀に囲まれた曲輪が備わり、侵入する敵を攻撃しやすい造りとなっています。令和元年(2019年)に発掘調査を行った結果、門の礎石や暗渠排水溝、岩盤を削り構築した階段が検出されました。
※現地説明板より




北曲輪(牧水広場)
現在地は、北大手門を登り、三ノ丸へ向かう途中の南から北へ延びる帯曲輪で、絵図資料からは建物等の記載は確認できません。平成9年(1997年)の発掘調査により、中近世の遺物包含層が検出され、瓦片、陶磁器片、土師器片等が出土した他、包含層の下からは、遺構面が検出されました。

曲輪の南西側で地山が検出されていますが、北側には無いことから、地山整形後に盛り土して造成された曲輪であることが確認されています。現在は梅林となっている他、延岡に縁ある歌人・若山牧水にちなみ「牧水広場」として親しまれており、延岡で幼少期を過ごした牧水は、城山の鐘を歌に詠み、ここに歌碑が建立されました。
※現地説明板より


井戸跡
延岡城の絵図資料「日向国延岡御本城要害絵図(明治大学博物館所蔵)」によると、この場所には、井戸を表す印が二つ描かれていることから、井戸があったと推測され、平成11年(1999年)に行われた発掘調査により、絵図のとおり二箇所の井戸跡が確認されました。

向かって左側の井戸は、縦90センチ×横90センチ、深さ150センチほどの大きさで、材質は阿蘓溶結凝灰岩製(灰石)、床面は1枚の灰石張りになっています。

右側の井戸は、縦120センチ×横120センチ(深さ不明)で、左側と同じく阿蘓溶結凝灰岩が使用されています。この場所は谷筋であるため湧水を期待していたと考えられます。
※現地説明板より



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