コンテンツへスキップ
100名城・続100名城 -
別称 清須城、清須要害、清州城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 あり
標高 6.9m
最終訪問日 2014-01-04

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平水城
曲輪配置梯郭式・輪郭式複合
築城者斯波義重
築城年応永12年(1405年)頃
廃城年慶長15年(1610年)頃(清洲越し)
主な城主斯波氏、織田氏、福島氏、松平氏
指定文化財市町村区指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造独立式 天守形式望楼型
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓あり(模擬天守・清洲城天守閣)
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀あり(城門・太鼓橋周辺塀復元)
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門あり(元:本丸大手門・搦手門伝承、先:市内総見院山門・安正寺山門等)
遺構 水堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:6.9m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

清州城(きよすじょう/きよす城)は、愛知県清須市清洲に所在する濃尾平野中央部、庄内川水系五条川両岸の低平地(標高約5メートル)に築かれた尾張国守護所・織田氏本拠たる近世平水城跡である。「清須城」とも表記。清須市指定史跡。応永12年に尾張守護・斯波義重が下津城の別城として築いたことに始まる。文明年間に守護所となり、織田信長が那古野城から本拠を移して大改修。五条川を天然の外堀兼水運路として城域中央に引き込み、東海道と中山道・美濃路が交差する要衝を扼した。織田信雄期には二重の堀や長大な石垣、天守を備えた大城郭へ拡張。五条川右岸の本丸跡(清洲公園・清洲古城跡公園)には土塁や信長公銅像、発掘出土石垣が残り、左岸には平成元年(1989年)に三層四階の模擬天守が建設され大手橋(朱塗りの太鼓橋)とともに整備されている。

⚔️ 歴史的役割

織田信長の天下統一の出発点であり、本能寺の変後の織田家後継者を定めた「清洲会議(清須会議)」の舞台として日本史上の大転換点を担った。信長は弘治元年(1555年)に入城し、尾張統一を達成。永禄3年(1560年)には本城から出陣して今川義元を急襲した桶狭間の戦いで大勝利を収めた。永禄5年には徳川家康と「清洲同盟」を締結。信長が小牧山城へ移った後も尾張の拠点として維持され、天正10年(1582年)の信長横死後、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興が集結して清洲会議が開かれた。信長の次男・信雄が城主となり巨城へと修築したが、小牧・長久手の戦いでは主戦場近接の司令部となった。関ヶ原合戦では東軍の後方拠点となり、福島正則を経て松平忠吉(家康四男)、徳川義直が入封。慶長15年(1610年)、家康の命により名古屋城築城と城下町全体の移転(清洲越し)が断行され、資材も名古屋城へ転用されて廃城となった。

👀 見どころ

五条川左岸に平成元年に建設され黄金の鯱が輝く三層四階の白亜の「模擬天守(清洲城天守閣)」および朱塗りの「大手橋(太鼓橋)」、東海道新幹線や在来線の高架下に良好に現存する本丸土塁「信長公本丸土塁跡」、桶狭間出陣時の姿を模した「織田信長公銅像」および妻「濃姫像」、五条川河川改修に伴う発掘調査で検出され移築展示された織豊期の「清洲城石垣(野面積み出土石垣)」、城内から出土した金箔瓦・輸入陶磁器・鉄砲玉等を展示する「清洲城歴史資料館」、市内寺院の総見院に移築現存する「旧清洲城移築門(御構門伝承門)」および安正寺山門、清須市指定史跡碑・案内板

🍲 ご当地グルメ


概要・現地案内板

清州城は当初、尾張守護所の下津城の別郭として築城されました。
その後、下津城が戦乱で消失したため文明8年(1476)に守護所が清州城へ移されたとされています。
戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を握っていました。
尾張の上四郡を支配していた岩倉の織田氏と下四郡を支配した清州の織田氏が争うなかで、清州織田家当主の信友を那古屋城主織田信長公は攻め滅ぼして清州城に入城し、尾張の拠点としました。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元の軍勢を打ち破ったのを手始めに、美濃・近江等の近隣の国々を攻略して着々と天下統一へと歩みを進めていきました。
しかし、天正10年(1582)の本能寺の変によりその志は夢半ばで断たれてしまいました。このように天下統一の礎を築いた織田信長公は郷土の英雄として人々の尊敬を集めています。
清州城は、「関東の巨鎮」と称えられ、尾張はもとより東国の中心地として発展を遂げました。
信長の長男の信忠、二男の信雄以降は名だたる武将が城主となりました。
徳川義直の代の慶長15年(1610)徳川家康は、清州の廃都と名古屋遷都を命じ、三年後には、「清須越し」が完了しました。
清州城は廃城となり、城下町から、美濃路の宿場町へと姿をかえていきました。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


清州城公園


模擬天守


現在ある模擬天守は、1989年(平成元年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、建設されました。
清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建てられ、当時とは異なる位置にあります。

清州城の石垣


清洲城は、応永年間(1400年頃)に、尾張守護職であった斯波義重により守護所下津城(現稲沢市)の別郭として築城されたといわれている。その後、文明8年(1476)守護所が清洲に移されると、津島などとともに尾張有数の都市として繁栄した。その後、織田信長、織田信雄と城主をかえ、徳川家康の命により慶長15年(1610)「清洲越」が始まり、城下の住民や石垣、建物等の大部分が名古屋城へ移され清洲城は廃城となる。
復元された本石垣は、平成8年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清洲公園前の五条川右岸(現在は下流200米に銘板で表示)で発見されたもので、清洲越直前の本丸南側の石垣と考えられる。石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。
※現地復元石垣展示場所看板より


清洲城武将隊 桜華組


桜華組は、清須市の市制7周年を記念して2012年7月7日にお披露目され、翌8日から活動を開始しました。清洲城を拠点に、清須市や周辺自治体でのイベント、県の広報活動に参加していました。2014年1月26日に清須市清洲市民センターでファイナルイベントが開催され、同月29日の清洲城雷武をもって活動を終えた。しかし清洲城でのイベントでたびたび復活して雷武を行ってきたが。同年10月14日の「清洲城信長まつり」で正式に解散した。


🧭 周辺の城郭マップ

表示半径:
ピン表示:
現在の城 訪問済 名城 一般
半径 10km 圏内の城郭(0 城)

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR東海道本線清洲駅から徒歩約15分、または名鉄名古屋本線新清洲駅から徒歩約15分(清須市清洲・清洲公園および清洲古城跡公園一帯、五条川両岸、標高約5m、平地比高約0〜2m)

車でのアクセス

名古屋第二環状自動車道 清洲東ICから国道22号・県道136号経由で西へ車で約5分、または名神高速道路 一宮ICから南へ約15分

駐車場

有(清洲公園駐車場・清洲城前駐車場、無料約110台)

📍 周辺地図

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

トップへ戻る