概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
概要
藤橋城は、東京都青梅市藤橋二丁目の藤橋城址公園一帯に位置する戦国時代の平城(平山城)である。武蔵野台地北縁が霞川低地に向かって突出する標高約165メートルの舌状段丘先端部に占地し、北側の低地との比高は約5〜6メートルを測る。城郭の主体部は東西約50メートル、南北約60メートルの単郭方形(長方形)を呈し、周囲を幅広く重厚な土塁と空堀が囲繞する。特に北西隅および南西隅の土塁は一段高く盛られて櫓台状の様相を呈しており、西側外周には帯曲輪・腰曲輪状の平坦面が付設されている。昭和28年に青梅市指定史跡に指定された。周辺は閑静な住宅街となっているが、主郭跡が小公園として保存され、都内でも良好な土塁遺構をとどめる貴重な中世城館である。
歴史的役割
戦国期に北条氏照の配下にあった平山越前守虎吉、または藤橋小三郎の居城と伝えられる。平山氏は武蔵七党・西党の有力武士である平山季重の末裔で、檜原城を本拠とした宗家の分流とされる。一方、藤橋小三郎は辛垣城落城後に後北条氏に降った三田氏一族・三田治部少輔の配下(清戸三番衆)として記録に残り、平山氏一族とも推測される。当城は武蔵平野から奥多摩谷口へと通じる街道や霞川流域の水利・流通を押さえる軍事・監視の要衝に位置した。西方の勝沼城や今井城など近隣の後北条方城郭群と密接に連携し、上杉謙信の越山や武田信玄の西上作戦、国境紛争に備える出城・境目の砦として機能したと考えられている。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に伴い廃城となった。
見どころ
主郭を囲む重厚な土塁、北西隅の櫓台状土塁、主郭外周の空堀・腰曲輪痕跡、青梅市指定史跡案内板
ご当地グルメ
青梅うどん、TOKYO X豚肉料理、青梅だんご、へそまんじゅう、吉野梅郷の梅スイーツ
おいど攻城記録

藤橋城跡
現存する遺構は、東西70メートル×南北60メートルの曲輪と付属する腰曲輪、土塁、空堀等であり旧態をとどめている。『武蔵名勝図会』(文政3年・1820)に、次のように記されている。「平山越前守虎吉という人の住居の地なり。この平山氏は北条氏照に仕えたる人なり。平山右衛門大夫・同加賀守などは檜原村に城跡あり。又、平井村・大久野村あたりは平山氏が旧跡なれば、この越前守もその一族なるべし。

ここは土居を廻らし、城跡もありで、その内の広さ東西20間余、南北凡そ50間程、入口の城戸門跡と覚しきところは南向きにて、すべて平地なり。西より北へ廻らして今井村の水田に臨み、霞川の流れを帯びたり。この辺は崖にして高さ二丈あまりなり」。
※現地説明版より














2025/7最終訪問