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100名城・続100名城 -
別称 神代氏芦刈館、芦刈館、芦刈城、芦ヶ里城、御館
城址碑 なし
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 2.3m

📋 概要スペック

種別居館
縄張平城
曲輪配置環濠式
築城者神代家良
築城年天正18年(1590年)頃
廃城年江戸時代初期
主な城主神代氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 水堀あり

📜 概要

神代氏芦刈城(神代氏芦刈館)は、佐賀県小城市芦刈町芦溝の平野部(現・芦刈農村公園周辺)に築かれた戦国末期から近世初頭の平城・環濠居館跡である。有明海沿岸のクリーク地帯に位置し、東西約60メートル、南北約80メートルの単郭長方形の区画を基調とする。主郭周囲には外敵の侵入を阻む水路・環濠(クリーク)が巡らされており、農地整備や公園化が進んだ現在も公園周囲を囲む水路網に環濠居館の輪郭が明瞭に残存する。館跡北側の道路沿いには解説案内板が設置されており、近隣の福田寺には神代氏歴代の墓所が伝わる。

⚔️ 歴史的役割

背振山地・山内武士団の雄として龍造寺隆信と激闘を繰り広げた神代勝利の系統である神代氏が、龍造寺氏・鍋島氏への従属および和議を経て山内(三瀬城)から平野部へ転封された際に築かれた。天正18年(1590年)頃、鍋島直茂は強固な結束力を誇る神代党を分断・統制するため、神代長良の跡を継いだ神代家良(勝良)を山内から芦刈・川久保など約1万石へ移封させ、家良が芦刈領統治の政庁・居館として当城を構えた。その後、鍋島藩政の確立と家臣団の城下集住に伴い、江戸時代初期に領主居館としての役割を終えて廃絶した。

👀 見どころ

芦刈農村公園周囲を囲む環濠(クリーク)水路遺構、神代氏芦刈館跡解説案内板、近隣の神代氏菩提寺・福田寺(神代家墓所)

🍲 ご当地グルメ

小城羊羹、芦刈ムツゴロウ料理、ワラスボ料理、有明海苔料理、佐賀牛料理


おいど攻城記録

神代氏芦刈館跡


この館は江戸時代に佐賀鍋島藩家臣神代氏が芦刈地域を管轄するために開設した館です。神代氏は戦国時代に脊振・佐賀・小城山間部を支配し、肥前の戦国大名龍造寺隆信とも度々戦いました。のちに、龍造寺氏に臣従し、江戸時代は、鍋島藩家臣として、川久保や芦刈地域を領有しました。

神代家文書の「御知行石高并諸覚」によれば天正18年(1590)に、「芦刈・川久保并 岩蔵・納所・松瀬」などの地所で物成6420石余が宛がわれました。寛文2年(1662)2月19日付の「御公儀二差出目安前」には1437石余が「芦ヶ里村」分として掲げられています。神代氏の全知行地内で芦刈館が果たした重要度が想像できます。

館跡は、現在の芦溝地区の農村公園を含む南北170m×東西250mが範囲(旧字名を「神代」という)で、特に北東隅の田地を「館屋敷」、「オヤカタ跡」などと呼称します。この場所が神代氏館の比定地であることは疑いありません。江戸時代後期に編さんされた「荻府見聞俚言集」には「館屋敷神代之館也、凡壱 段三方堀也」と記されており、周囲には「川久保」「松瀬」「藤原」といった山内地方を中心とする戦国期からの本領地名と同じ「しこ名」が残っており、旧家臣団が転入して土着していったことを物語っています。
※現地説明板より

松土居


寛永年間に干拓のために築かれた大堤防です。佐賀市から白石町まで続いています。
※現地看板より

2026/2最終訪問


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